井上荒野『ベーコン』(集英社文庫)
「ほうとう」「クリスマスのミートパイ」「アイリッシュ・シチュー」「大人のカツサンド」「ゆで卵のキーマカレー」「ベーコン」…。文字だけでもおいしそうな食べ物たちがタイトルになった短編集。
全部で10編の物語が収録されているが、おいしそうなタイトルとは裏腹に、それぞれの物語は苦くて切ないものが多い。
個人的に印象に残った物語をいくつか紹介したい。
「アイリッシュ・シチュー」
大雪に見舞われ交通が麻痺した東京郊外の一軒家で起こる非日常の連続。通勤通学に必死な夫と子どもたち、ちょっとした隙を見て外へ逃げてしまった猫のヨベル、アイリッシュ・シチューを作る「私」。ヨベルを探しに家を出た時に「私」はとある青年と出会う…。その後の展開に衝撃を受ける。
「ゆで卵のキーマカレー」
妻子のいる恋人・靖司と同居中の主人公・柚衣。靖司は柚衣と暮らすために家を出てきたと言うが、家族は柚衣の存在を知らない。ある日靖司の娘たちが家に来ることになり、柚衣は追い出されてしまう。靖司に伝えていないとある報せを抱えていた柚衣は、途方に暮れつつも靖司との思い出のつまったインドカレーの店に行く…。
キーマカレーの味の描写は無いのに、彼らの思い出があるからか、とてもおいしそうに感じた。
「父の水餃子」
父が家にいる休日の日曜日。犬の散歩やコーヒーでの一服などに父が入りこんでくる。十歳の「僕」は、父が家族の習慣に無理矢理介入しているような、噛み合わない感覚に襲われる。そんな僕の心配をよそに、父は突然水餃子を作りはじめる…。
父と家族との会話のどこか噛み合わない様子と切ない物語の結末に苦味を感じた。
「ベーコン」
四歳の時に「私」の元から出て行った母親の葬式で、当時からの恋人・沖さんと出会う。山の上で養豚の仕事をする沖さんの元へ、「私」は父親の死と自分の結婚という二つの報せを抱えて向かうがなぜか言葉が出てこない。何度か通いつめるうち、沖さんは育てた豚で作ったベーコンを「私」にふるまう。それを食べた「私」は濃いベーコンの味に突き動かされて…。
「脂身がぷっくりと膨らみ、次第に透明になって、端のほうから少しずつ、ちりちりと焦げていく。脂が炭の上に落ちて、香ばしい細い煙になった。」(271頁)
「ベーコン」に登場するベーコンの描写がとにかくおいしそうだった。
タイトルとなった食べ物たちは、それが思い出の食べ物だったり、一種のトラウマだったり、行動するきっかけを与えてくれたり、ホッと心に染みたりしていて、人間関係のしがらみに深く入りこんでいる。
かなしいとき、くやしいとき、つらいときなど、さまざまな「訳あり」の状態のときのおいしいご飯は最上の癒しのひとつだ。切ない物語が多いが、本書に出てくる食べ物はどれもとてもおいしそうに描かれていて、疲れ気味のわたしの心をくすぐったのだった。