この物語に「桐島」は登場しない。
「桐島、部活やめるってよ」という伝聞調の表題の通り、バレーボール部キャプテンでやる気も能力も部内一であった桐島が部活を辞めた、という事実を聞いた周囲の人物に焦点を当てた物語である。
高校生特有の「勢い」だけの他愛もない会話、スクールカーストの存在、スクールカースト上位者への憧れと口惜しさ、片想いのときめき、部活や恋愛に没頭する様子など、高校生の雰囲気を忠実に描写している。
彼らの最大の特徴は、会話や価値観のどれを取り上げても高校という枠を超えない、高校という社会のみに通用するある種の「視野の狭さ」である。この物語ではそれを絶妙に描き出している。
「桐島、マジでバレー部やめんのかな。俺はポケットにごそごそと手を突っ込み、中に入っていたiPodをなんとなく取り出した。電源が入ったままだったので、切っておく。二十四時間営業のマックを横目に通り過ぎるとき、大きめのキャメルカーデから細い腕をのぞかせた女子高生がちらりと見えた。少し下り坂になっているこの道で、竜汰はどんどんスピードを出していく。彼女とセックスしてえー! と大声で叫ぶ竜汰の頭を、俺は爆笑しながら殴る。うるせーよお前!」(13頁 菊池宏樹)
「桐島はやっぱりうまいし、小学校からバレーをやっていたらしいし、ていうかなによりキャプテンだし、リーダーシップあるし、誰にだってアドバイスできるし、一番チームを見ているし、きついことをきつい言葉でたくさん言うけれど、それはもちろんチームのためで勝利のためでメンバーをまとめるためであって、
みんなわかっていた。みんなそれをわかっていて、
桐島だけ、ぽかんと、浮かんだ。
別に孝介のイライラがメンバーに伝染したわけでも、日野のへこんだ気持ちが伝染したわけでもない。たぶん一日に一ミリずつとか、きっとそれは本当にわからないくらい、まるで夕方が夜になっていくように、桐島はぽかんと浮かんでしまった。」(35頁 小泉風助)
「ピンクの似合う女の子って、きっと、勝っている。すでに、何かに。
なんで高校のクラスって、こんなにもわかりやすく人間が階層化されるんだろう。男子のトップグループ、女子のトップグループ、あとそれ以外。ぱっと見て、一瞬でわかってしまう。だってそういう子達って、なんだか制服の着方から持ち物から字の形やら歩き方やら喋り方やら、全部が違う気がする。」(64頁 沢島亜矢)
「高校って、生徒がランク付けされる。なぜか、それは全員の意見が一致する。英語とか国語ではわけわかんない答えを連発するヤツでも、ランク付けだけは間違わない。大きく分けると目立つ人と目立たない人。運動部と文化部。」(80頁 前田涼也)
目立つこと・目立つ人がかっこいいという価値観のもとに、スクールカーストはなんとなく確立されていく。スクールカーストは普段目立たない人がが目立つようなことをしてはいけないような空気を作り、みじめな気持ちにさせる。それが「なんとなく」確立しているという恐ろしさを生み出すのが高校という狭い社会なのである。高校生にはそのような恐ろしい「視野の狭さ」があれば、好きなことに没頭するという将来への可能性に満ちた「視野の狭さ」もある。それを物語内では「ひかり」と呼んでいる。
「飛び出す、という言葉を僕達は体現できる。十七歳のこの瞬間だけ。
僕はこの瞬間が一番好きだ。
世界で一番最高の瞬間を、映像として、僕らが切り取る。
どんなことでも映像で伝えられる気がする。レンズを通して見る世界は、普段は見えない感情に満ちていてとてつもなく美しい。」(121頁 前田涼也)
「俺たちはまだ十七歳で、これからなんでもやりたいことができる、希望も夢もなんでも持っている、なんて言われるけど本当は違う。これからなんでも手に入れられる可能性のあるてのひらがあるってだけで、今は空っぽなんだ。」(184頁 菊池宏樹)
「映画部の奴を見て思う。自分がミスしたのにそれすらもなんとなくもみ消されて、自分がいないように扱われて、女子なんかにそれを笑われて、なんかやっぱ、むなしいよな。(中略)
だけど、そんな気分も全部一瞬でなくなってしまうくらいのものが、あいつらにはあるんだ。
どっちがむなしいんだろうな、俺と。」(198頁 菊池宏樹)
「きっとレンズの向こうに映るバドミントン部の姿は、この目で見るよりも遙かに美しい。だけど、そのレンズを覗く映画部ふたりの横顔は、
ひかりだった。
ひかりそのもののようだった。」(208頁 菊池宏樹)
好きなことに夢中になる当人は「ひかり」に気付かない。他者が「ひかり」を感じて「ひかり」の存在があらわになるのである。引用は文庫版だが、208頁の引用部分は頁をまたいでおり、208頁は「ひかりだった。」という文章が先頭になっている。物語内容だけでなく、頁をめくるという行為からも、「ひかり」のあらわれを感じられる。夢中になればなるほど視野は狭くなり、「ひかり」の輝きが増していく様子が描かれている。前田涼也の「ひかり」を浴びた菊池宏樹のモノローグは、何事も中途半端な自身を悔やむ切なさと「ひかり」への憧れが素直に滲み出ている。
そのほかに物語内で異様な存在感を放つのが「宮部実果」の章である。この章だけは、高校という枠を逸脱した「家庭」の物語になっている。実果は二歳年上の義姉と実父を交通事故で亡くし、義母と二人暮らしをしているが、義母は精神的なショックで実果のことを義姉のカオリだと思い込んで生活をしている。学校ではクラス内の上位グループに位置し、同じく上位グループのイケメンの恋人もいる順風満帆な生活を送る「実果」であるが、家では「カオリ」として、実果の存在を消さなければならない。学校で家庭の実態を知る者はいないようで、実果がひとりで葛藤する様子が描かれている。
「私はお母さんが死ぬまで「カオリ」として生きていこうと思った。(中略)どんな形であれ、私がこのひとにとって最後の、たったひとりの家族なのだ。
いつまでもお母さんの前で「カオリ」として生きるかわからないけれど、果実のように、濃密で、みずみずしく幸せな人生なんて、それからでも遅くはない。」(140頁 宮部実果)
「私は悔しくて絵理香に本当のことを言えないし、だけどカレーじゃなくてハヤシライスが食べたいなんてことは言っちゃうし、でも「カオリ」はもういないよ、私は実果だよなんて言えないし、私はなんていうかもっと、内側から、この人には芯があるなって思われるような人間になりたいんだ。
カオリみたいに。」(156頁 宮部実果)
実果は負けず嫌いである。自分の存在を否定されても、何としてでもカオリとして生きてやろうと喰らいつくような心理描写には異常なまでの「視野の狭さ」が描かれている。実果には「カオリ」として生きることで母に認められるという目標しか見えないのだ。みじめさまで覚える最終部の心理描写では、そうすることでしか救われない高校生の不器用さも描き出しているのだろう。
このように、あらゆる「視野の狭さ」が集結して『桐島、部活辞めるってよ』は完成されている。視野が狭いからこそ「ひかり」を放つもの・「ひかり」に憧れるもの・「ひかり」を追い求めるものが物語内ではっきりと見分けられてしまうのだろう。
社会人になると経済的自立ができ、仕事で視野が広がり、価値観を固定せず余裕ある考え方ができる「安全圏」(吉田大八氏の解説より)で生活をすることができるのだが、果たしてそこに「ひかり」はあるのか、とふと考える。
経験を積めばいろいろなものが研鑽されて自分の生き方が完成されていく。その代わりに、不恰好だけれど人を惹きつける、勢いある「ひかり」はどんどん無くなってしまうのではないか。
無駄に勢い良くて、
無駄に夢見がちで、
無駄にアツくて、
無駄に一喜一憂して、
無駄に素直で、
そんな高校生活を懐かしむことができるほど大人になったみたいだと感傷に浸りながら、まだまだ「ひかり」を求めて生きたいなぁと思った。
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「未熟で不恰好だけれど、美しい」ものがあるということを若くして気付いた著者の、可能性溢れるデビュー作。
著者と同い年ゆえ、作中に登場する曲(チャットモンチーやaikoやラッドウインプス)にも共感できて良かった。
行け! 行け! 私の両足!