よしもとばなな『さきちゃんたちの夜』(新潮文庫)



『さきちゃんたちの夜』は、突然居なくなった仕事仲間を捜しに行く早紀(「スポンジ」)、亡くなったおばの遺品整理に向かう紗季(「鬼っ子」)、亡くなった祖父母が作っていた豆スープの味を残された家族と共に追い求める咲(「癒しの豆スープ」)、病気で子どもが産めない身体となり赤ちゃんへの執着が増した沙季(「天使」)、双子の兄を亡くした崎と兄の娘のさき(「さきちゃんたちの夜」)、これらの〈さきちゃん〉たちの日常が描かれている。
この作品の特徴は普遍的な「悪意」とささやかな「奇跡」が描かれているところである。

「豆スープがほしい、おいしい、嬉しい、ありがとう、よかったらこれ受けとって、そこまではみんな思い至る。
でも、祖母の手がまるでぼろぞうきんみたいにがさがさになって、血が出てばんそうこうをしているのに、それには気づかない。鍋を運んでくる祖父が足を引きずっていても、めったに手伝いはしない。それをなんとも思わないでいられる、あるいは目に入らない、あるいは見てみぬ振りをする、人間の鈍感さ。あるいはずるさ。
え、もうなくなるの、でも私まではもらえるよね?というときにだれもが見せる同じ表情。
欲しい、というコンタクトレンズをはめたように、他のことは見えなくなってしまい、少しでも多くもらいたいと思う。スープくらいのことならこういう面を見せてもいいだろう、という感覚。善良な人々に潜む小さな悪魔がこわかった。極小だからこそ、決して消えることはない。
それなのになぜだろう、豆スープを手に持ってほっこりとした笑顔になる人たちを見ると、涙が出そうになってしまう。それだからやめられない、人間を、豆スープを。そう思った。自分の中にも極小の悪魔と同時に潜む、そのくめどもつきない愛のかけらみたいなものを、どちらも小さいその消えないものを、味わいたいような気持ちにいつしかなっていた。」
(「癒しの豆スープ」83頁)

ひとりひとりのちいさな欲望が集まって生まれる「悪意」は日常にあふれている。ひらがなを多用しやわらかい雰囲気を出しながら日常の生きづらさを描き出していく。
日常の生きづらさを吹き飛ばすような力は無いけれど、物語後半でささやかな「奇跡」が〈さきちゃん〉達に訪れる。

「私の閉じた目はなぜか別の景色を見ていた。(中略)
「大丈夫、高崎くんはインドにいる。ヨガをやってる。山も見える。空気がとてもきれい。きっと健康になって帰ってくるよ。」
「なんでわかるの?」
飯岡くんは言った。
「この天然海綿スポンジにギリシャの霊力があるみたいよ。」
私は笑った。」
(「スポンジ」33頁)

「私の声の中に、急に兄が降りてきた。
私は急にしゃべりだした。口が勝手に動き出した。
私はイタコなんかじゃないし、霊能力もない。なのに、なぜだろう。私に兄が重なり、私は自分を一瞬忘れた。
兄が強烈に近くにいて、私の目からは懐かしさのあまり自動的に涙がどんどん出てきた。(中略)
私は私として話しているのに言葉の内容を作っているのは兄だった。
そして話し終わったら、兄は抜けた。」
(「さきちゃんたちの夜」193頁)

イタコのような霊的な力で、失踪した友人の居場所が分かる。死んでしまった兄に憑りつかれたように言葉が出てくる。死者が生き返るような壮大なものではなくささやかな「奇跡」。ささやかな「奇跡」なのに、〈さきちゃん〉たちはすごく救われた気になるのだ。この「奇跡」は〈さきちゃん〉たちに新たな日常を歩ませるきっかけとして作用している。

表題にもなっている「さきちゃんたちの夜」では、人との関わりについて次のように語られている。

「人と共にいるのは個の自分にとってはとても不自然、でも種としては限りなく自然なことでもあるのだ。その自然さはまるで雑草がはびこっていくような、沼の底によくわからないにょろにょろしたものがどんどんうごめいて育っていくような、そんな意味をも含んでいた。
その感覚を忘れてはいけない。人の体臭、息づかい、手のぬくもり、しっとりした生温かさ。そういうものがただただ気持ち悪くなってきたら、種としての自分が危うくなる。
知らない人と満員電車で触れ合うこと、愛する人たちがそばで生臭くいることとは違うのだということを、体が忘れてしまう。鈍くなってそれらをいっしょのカテゴリに大雑把にくくってしまう。
バランスはいつでも取っていたいという意欲が突然にわいてきた。」
(「さきちゃんたちの夜」207頁)

この部分が、『さきちゃんたちの夜』全体のテーマだと思う。新たな日常と言っても普遍的な「悪意」は無くならない。自分でバランスをとって、何が大切なのかという「感覚」を無くさないように生きていかないといけない。慌ただしさに溺れてしまうと、もっともっと生きづらい。〈さきちゃん〉たちは、そう再確認して、新たな日常を歩みだす。

皆、小さな悪魔を飼い慣らしながらバランス良く生きているのでしょうか。普遍的な「悪意」と同じく、ささやかな「奇跡」もひとりひとりの「善」な気持ちが集まって生まれるのではないかと思う。