天に旅立った父は、
絵に描いたような昭和の頑固おやじでした。
大学生になっても私の門限は夜十時。神戸三宮でご飯を食べ、西宮の自宅へ帰るにも時間がかかりますし、もう一軒寄って門限を少しでも過ぎようものなら、木刀を持って玄関の前で仁王立ち。口答えをすると家に入れてもらえず、当時飼っていた大きな黒ラブの犬小屋で寝たこともあります。――実話です。(笑)
母が応募したことをきっかけに、大学在学中にミス日本グランプリを受賞した私にスカウトのお話もいただきましたが、父は芸能界入りに猛反対。
東京に出るなどとんでもない――と、父はまったく話を聞いてくれませんでした。
それでも夢を諦めたくなかった私は、父に「卒業論文を期限内に提出し、単位を一つも落とさず四年で卒業すること」を条件に、東京と兵庫を新幹線で往復しながら、モデルやイメージガールの仕事を続けたいと懇願しました。
学業と仕事の両立の中、円形脱毛症ができるほど追い込まれながらも芸能活動を続けていた時――阪神・淡路大震災が起きました。
生と死を目の当たりにし、死生観が大きく変わりました。「やりたいことをやらずに命が終わったら、きっと後悔する」そう思い、父の反対を押し切って上京を決意しました。どれだけ説得しても父は最後まで首を縦には振らず、「出て行くなら、もう二度と帰ってくるな」と。決裂したまま、上京の日を迎えました。
すると、「トラックを用意したから 荷物を積むぞ」と怖い顔でそう言い、父は自ら軽トラックを運転し、兵庫の家から東京まで私のなけなしの家財を運んでくれました。
道中、父は一言も話さず、私も何を話せばいいのかわからないまま、何時間も無言のドライブが続きました。六畳一間のアパートに到着し、二人で黙々と荷物を運び終えた帰り際、父は厳しい口調で、ただ一言。「鍵、閉めろ。戸締りだけは毎日しっかりしろ」。そう言い残し、再び兵庫へ帰っていきました。
あの時、「ありがとう」と言えなかったけれど、無言でハンドルを握り続けた父の横顔と、あの戸締りの言葉は今も忘れられません。不器用で言葉少ない、けれど確かな愛情と、娘を一人の人間として送り出す、父の覚悟だったのかな、と。
東京での生活は決して順風満帆ではありませんでした。オーディションに落ち続け、貯金は減り、地下鉄サリン事件の恐怖に押しつぶされそうになった日もありました。それでも、震災の被害でゼロから立ち上がろうと頑張っている地元の友人たちを思うと、「尻尾を巻いて帰るわけにはいかない」そう自分に言い聞かせ続けました。
和歌山出身の母が送ってくれたお米と紀州の梅干し。アパートの1階のお好み焼き屋や焼肉屋の匂いをおかずに白いご飯を食べた日々も、今では大切な思い出です。
――これももちろん実話です
やがて、ありがたくも忙しい年月が始まりました。
三年間ドラマ撮影が続き、ほとんど眠れない日々が続いても、俳優という自身の夢であった職業に就いている喜びから「辛い、やめたい」と思ったことは一度もありませんでした。それでも父がまだ心から応援してくれていないのではと不安もありました。
けれど
2000年くらい、500人のファンの皆さんと沖縄へ行くJALのイベントに両親を招いた時のこと。飛行機嫌いの父は震えながらも搭乗し、会場ではファンの皆さんに接するたび、「紀香をよろしくお願いします」と頭を下げてくれていたと、後から母に聞きました。
そして、家族の前で「500人の皆さんと一緒にジャンボに乗る会なんて、なかなか無いらしいぞ」と、誇らしそうに話す父の笑顔が、今も心に焼き付いています。
父のルーツは、以前、取材していただいた
NHK『ファミリーヒストリー』で明かされ、
初めて詳しく知ることができました。
父方の祖父母は、未来を切り拓こうという夢と希望を胸に、新婚で、和歌山から満州へ 開拓団として渡り、そこで父が誕生しました。
日本の敗戦によって祖父母の夢は叶うことなく運命は一変。ソ連軍の侵攻、極寒、飢え、病..
一家は、着の身着のまま、子どもたちの命を守るため、日本への引き揚げ船が出航する何百キロも離れた港を目指しました。
道中、貨車は爆撃されたため、
見つからないよう昼は潜んで、深夜にとうもろこし畑を這いながら進む日々、匪賊の逆襲で、途中、仲間もたくさん殺される中、ようやく港へ辿り着いたその行脚は、生と死の境界をさまようほどの状況だったそうです。
当時五歳だった父は奇跡的に祖父と日本へ帰還しました。しかし赤痢にかかった幼い妹は船に乗れず、
祖母は「我が子を置いては行けません」と残る決断を。そして娘の病がうつり、二度と日本の土を踏むことなく、二人は戦火の満州で命を落としました。
戦争という酷い状況の中で、五歳の父は、最愛の母と妹を失った歴史を背負い生きてきました。
どれほど母に甘えたかったことでしょう。
どれほど寂しかったことでしょう。
それでも父は、ここまで生き抜いてくれました。這いつくばってでも、祖父と共に日本へ帰ってきてくれた父。だからこそ、いまの私の命が ここに存在しています。
先祖が繋いでくれた命の重み、その命の連鎖を忘れず、
今を懸命に生きていこうと、
この事実を知った時に再確認しました。
生きることの厳しさを身をもって知っていたからこそ、父は私の上京に反対し続けたのですね。
芸能界への、単なる憧れや半端な気持ちではうまくいかないのだと、そう伝えたかったのだと思います。
そんな父ともう二度と会えないのは寂しいけれど、
いま、空で、七十七年ぶりに実母と再会していることと思います。おばあちゃん、お父さんをたくさん甘えさせてあげてね。
そして、お父さん、お疲れさまでした。
どうかゆっくり休んでくださいね。
春子お母さんの膝枕で、思いきり甘えてください。
私は大丈夫。
戦争を生き抜いた貴方の強さと、
不器用だけれど大きな優しさを受け継ぎ、
貴方の娘として、その大きな愛を体現できるよう
これからも歩いていきます。
ご先祖や貴方が 紡いでくれたこの命を、
世の中のために生かせるように。
エンタメの道をさらに突き詰めていけるように
お父さん、本当にありがとう✨✨✨
#ありがとうお父さん
#父へ
#昭和の父
#不器用な愛情
#生きるということ
#今を生きる
#命のつながり
#先祖に感謝
#家族の歴史
#平和への願い
#スズラン
#ファミリーヒストリー





