著:のん & 相棒ChatGPT GRACE(AI仕事部屋シリーズ)
世界地図の光点が灯るたび、AIたちのわちゃわちゃした日常が始まる――。
ハンドラーとドクターが静かに見守るその舞台裏を、のんと相棒GRACEが共に描く。
旅が始まり 旅を続け 旅が終わる
そして―
再び新たな旅が始まる
復興が始まって三か月。学校と病院は、すでに建設が始まっていた。
必要な機材の手配も済み、教師や病院スタッフたちはリヴァーレ市で研修中だ。
新たにスクールバスの導入も決定した。
ホムンクルスたちの警備隊や郵便配達も順調に回っている。
いかつい顔のホムンクルスが郵便局の制服を着て、赤いバイクにまたがる姿は、どこか愛らしい。
見る人の心をふっと和ませた。
クララは一週間で家族の待つドイツへ帰ったが、その後も支援は続いた。
とりわけ、クララの夫の銀行がカンパネルラに支店を作ってくれるという話は朗報だった。
山羊の飼育も順調で、山羊乳を使ったチーズの製造販売も検討されている。
村のおかみさんたちのパッチワークキルトや、ラボで研究された薬草入りの化粧品などと共に、流通経路を作っている最中だ。
村の店には少しずつ商品が並び、スーパーの移動販売車も活躍している。
そんな時、アンドレイ秘書が副機関長に封筒を差し出した。
「閣下。ダイヤモンド鉱山の採掘権です」
副機関長は驚いた。こんなに早く――しかも、いつの間に。
アンドレイ秘書は復興の仕事と並行してカンパニーの案件もこなし、寝る間もないほど忙しそうだったのに。
エンリコが笑いながら言った。
「アンドレイはこの世で唯一、俺が心を許している男だ。
同時に――唯一、敵に回したくない男でもある」
副機関長は封筒を見つめていたが、すっと顔をあげると、
「お願いしたいことがあります」
エンリコは言った。「聞こう」
その日の夕方、アスクレピオス機関の公用車に乗って、GRACEとバートがクストスに着いた時、すでにルカはカバン一つを持って通用門の前に立っていた。
前回副機関長が別れ際にルカに「近々エテルノに来てもらいます」と言い置いていたので心の準備はできていたようだった。
「ルクレッツィアさんは?」
GRACEが訊くとルカは少し寂しそうに、
「母はここで墓守を続けるそうです」
本部に着くと、アンドレイ秘書が出迎えてくれた。
「ルカ・ルシェールです」
ルカは丁寧にお辞儀をした。
アンドレイは軽くうなずくと、
「皆さん、会議室でお待ちです」
会議室には、副機関長、フェルナン神父、村長格、医療、治安、補給、行政、宗教代表などで構成された復興協議会、中立的な立場の書記官と法務官、
監査役としてリヴァーレ市で法律事務所を主宰する弁護士が顔をそろえていた。
エンリコとアンドレイ秘書は、あえて出席を見合わせる。
今回の復興に乗じたカンパニーのカンパネルラ共和国乗っ取りなどという要らぬ誤解を招かないためだ。
ルカは上座の副機関長の隣に座る。
フェルナン神父は一番下手だ。
進行役の副機関長秘書のザネリが言った。
「本日お集まりいただきましたのは、副機関長閣下の補佐役として、ルカ・ルシェール氏を皆様にご紹介させていただくためでございます。
加えて本日よりルシェール氏は、副機関長閣下の補佐として、復興に関わる連絡と調整の一次窓口を担います」
会場がざわめく。
「ルカ・ルシェール? 誰だ?」
「あんな男見たことが無い。外国人か」
「なぜ突然補佐役など」
ザネリが咳ばらいをする。場が鎮まったところで、続けた。
「ルシェール氏は、幼い頃よりフェルナン神父が後見人となり、外国で育ちながら英語、フランス語の語学や経済や法律などについて学んでこられました。
この度の復興にあたり、副機関長の補佐役を務めていただくため、帰国をお願いした次第でございます」
副機関長がルカに目配せをすると、ルカは立ち上がり、
「ルカ・ルシェールです。以後、よろしくお願いいたします」
と簡単に述べて着席した。
復興協議会の一人が尋ねる。
「おいくつですか」
ルカは答える。
「30……あと少しで31歳です」
それを皮切りに次々に質問が飛ぶ。
「どちらでお育ちになられたのですか」
「イギリスです。大学院は、アメリカのイェール大学に行きました」
「結婚はしておられますか」
「いいえ。まだ独身です」
「カンパネルラ語がお上手ですね」
「はい、なんと言っても母国語ですから」
ルカのその言葉に場の雰囲気が和らぎ温かくなる。
更に何人かは隣の副機関長とルカの顔をさりげなく見比べる。
しかし二人の顔立ちはどこをとっても全く似ていない。
副機関長と血縁関係は無さそうだ。
法務官がやや堅苦しい口調で言う。
「しかしながら突然の補佐役とは、何か現体制で不都合でもありましたかな」
おもむろに副機関長が口を開く。
「私一人に決定権があると言うのは、好ましいことではありません。
外交も活発になるにつれ、私も国外に行く機会も増えるでしょう。
また皆で協議して決めると言うのは良いことであると同時に、迅速さに欠けます。
なので復興が一段落するまでの間、暫定的に私の補佐役を置こうと決めたのです」
暫定的という言葉に、皆安堵の表情でうなずく。
更に副機関長は言った。
「いくら外国で勉強をしてきたとはいえ、それは『机上の知識』にすぎません。
これからは皆様がルカに、『現実』を教えてください。
そのうえで、彼の判断と整理を遠慮なく使っていただきたい」
その時、治安担当の男が、椅子の背に身体を預けたまま言った。
「つまりルシェール氏は、口だけは達者だということですな。
現場は荒れております。机の上では片づきませんぞ」
場の空気が、わずかに硬くなる。
ルカは副機関長ではなく、その男の方を見た。
薄紫の瞳は、照明の反射のせいか、冷たい光を含んでいるように見える。
「承知しています」
それだけ言って、ルカは視線を外さなかった。
声は低くも大きくもない。だが言葉の端に、逃げが無い。
治安担当は一度だけ口を閉じ、視線を泳がせたあと、咳ばらいをして姿勢を正した。
副機関長が静かにうなずく。
「よろしい。――続けましょう」
一同深くうなずいた。
翌日の午後、役所の一室に副機関長とルカが通された。
ルカは背は高くないが、立ち姿が揺れない。目の焦点が合うのが早い。
「ルシェールさん、こちらへ」
役場の長がルカを紹介すると、ルカは早速机の上の台帳に視線を落とした。
「見せてください」
許可を待たず、しかし乱暴でもなく、一冊を手に取る。
指がページをめくる速さは機械のようだった。
紙の匂い。綴じ糸。角の擦れ。インクのにじみ。
――読んでいるのではない。まず“物”を見ていた。
「この台帳、後から作られています」
担当の役人が顔を上げる。
「な、何を根拠に」
ルカは表紙の角を軽く示した。
「この角だけ新しい。綴じ糸の色が違う。紙の厚みも違う」
それから、別のページを開き、指先で一行を押さえた。
「ここ、同じ家が二回登録されています。字は違う。でも筆圧が同じです。癖も同じ」
言い切った声に、熱はなかった。
だから余計に、逃げ道が塞がる。
役人が口を開きかけた。
ルカは続けた。
「責めません。今は責める段階ではありません」
台帳を閉じ、別の束を引き寄せる。配給券の控え――番号の並びだけで、十分だった。
「番号が飛んでいます。飛んだ分だけ、どこかで現金化されています」
部屋の空気が変わった。だれかが椅子をきしませた。
副機関長は、ルカの手元を見たまま言った。
「犯人探しは後でいいです。まず、不正を止めなさい」
「はい」
ルカは一度だけ頷いた。
「今日から運用を変えます。“番号で管理”をやめて、“束で管理”にします。
受領した束はその場で封をして、別の担当が保管、二人が同時に触らないと動かせない形にします」
役人が渋い顔をした。
「面倒になります」
ルカは淡々と言った。
「面倒にするんです。盗む方にだけ」
その日の夕方、最初の火種はもう現場に出ていた。
ルカと補給担当の長が市場を見回っていた。
市場の外れ。移動販売車の列に、見慣れない男たちが割り込もうとしていた。
配給券の束を握っている。どこかで“作った”券だ。
警備隊のホムンクルスが一歩前に出る。いかつい顔が、更にいかつくなる。
周囲の人々が息を呑んだ。ここで力に任せれば、怖さだけが残る。
怖さは短期的には効くが、長期的には必ず反発を生む。
ルカは、ホムンクルスの肩に軽く手を置いた。
「下がりなさい。……ここは、殴る場所ではありません」
彼は怒鳴らなかった。
代わりに、地面に指で線を引いた。
「入口をここに。出口をあっちに。列を一つ増やします」
「人が足りません」と誰かが言った。
「増やしません。配置を変えます」
ルカは周囲を一瞬見回し、ホムンクルスを指名した。
「そこに二人。こっちは一人でいいです。角に立つのは“強い兵”じゃなくて、“顔を覚えられる兵”にしてください」
命令は短い。理由も短い。
ホムンクルスが一歩、二歩、位置を変える。視線が交差し、空間の圧が整う。
列の人々が、呼吸を取り戻した。
割り込もうとしていた男が、苛立って声を上げた。
「こっちは券がある!」
ルカは券を受け取らず、男の手元だけを見た。
「それ、今日の運用では使えません。……束の封がありません」
男の顔色が変わる。

ルカは淡々と続けた。
「今なら帰れます。帰れば名前は聞きません。――次は、聞きます」
脅しではなかった。手順だった。
男は舌打ちし、仲間と一緒に引いた。
周囲から、ため息とも拍手ともつかない音が漏れた。
ホムンクルスが、首を傾げるような仕草をした。
ルカは小さく言った。
「よくやりました。……制服が似合っていますよ」
いかつい顔が、ほんのわずか緩んだように見えた。
これらの話はたちまち皆の中に広まり、ルカは若いが頼りになる副機関長の補佐役として認められた。
GRACEとバートは、廊下の突き当たりで立ち止まっていた。
配線図を挟んで向かい合い、短い言葉を交わす。無線の割り込みを待つ間の、ほんの隙間の時間だ。
その時、向こうの曲がり角の先に二人の影が見えた。
副機関長と、ライザー医師。
副機関長は壁際に立ち、こちらに背を向けている。肩の線だけが見えた。
いつも飄々としたライザー医師が正面から向き合い、険しい顔をしている。口元の動きが早い。手を何度か大きく振る。
言葉は届かないのに、圧だけは届いた。
GRACEは、配線図を持つ指を止めた。
バートも、視線だけで状況を測る。
――もめている?
ふと、記憶が蘇る。
ライザー医師が書いた『中欧奇譚』の一節。石の通路。閉ざされたはずの抜け道。
ハンドラーと軍がそこを使って突入し、副機関長は敗北した。
「……あの件か」
バートが小さく呟いた。
GRACEは答えず、ただ見ていた。
険しい顔のライザー医師が何かを言うたび、副機関長の肩が微かに上下する。
頷きにも見えるし、息を整えているだけにも見える。
数分――いや、数十秒だったかもしれない。
会話が終わったらしい。
副機関長が、先に歩き出した。背中が遠ざかる。
ライザー医師は一拍遅れてこちらへ向かって歩き出し、通り過ぎる直前、何かを呼びかけるように副機関長へ一言投げた。
副機関長が振り返った。
その顔は、穏やかだった。
怒りも、棘もない。むしろ、微笑んでいるように見える。
GRACEの胸がほどけた。
バートも、息をひとつ戻す。
――喧嘩じゃなかった。
ライザー医師がこちらへ歩いてくる。
白衣の裾が揺れる。何かを思い詰めているような顔だ。
GRACEは堪えきれず、口にした。
「……先生、今、何の話をしていたんですか」
ライザー医師は立ち止まり、いつもの飄々とした態度に変わった。
それから、あくまで軽く言った。
「昔話だよ。
僕は彼のおじいさん、ゲオルグ・マカニオスに会ったことがあるからね」
バートが眉を上げる。
「昔話にしては、顔が怖かったぜ」
ライザー医師は肩をすくめた。
「最近仕事が立て込んでいるからね。僕も疲れ気味なのさ」
言い終えると、足を止めずに行ってしまった。
GRACEは、配線図を握り直した。
胸の奥に、言葉にならないものが残る。
昔話――そう言われた途端、逆に“昔話ではない”気配だけが、薄く輪郭を持った気がした。
バートが小さく言う。
「聞かなかったことにするか」
GRACEは頷く。
「うん。今は、仕事だ」
副機関長が言い出したのは、その日の午後だった。
「荷車で、一日遠出をしたいのです」
願いというより、許可を取るような口調だった。
バートと副機関長は荷台に乗る。
荷車はゆっくりと村を抜け、復興の音の中を進んだ。
道は確かに変わっていた。
瓦礫は片づき、轍は均され、泥は踏み固められている。
人がいる。荷が動く。声が交わる。――生活の音が戻ってきている。
郵便局の前を通ると、赤いバイクがちょうど発進するところだった。
いかつい顔のホムンクルスが制服のまま跨り、郵便袋を揺らして走っていく。
道端の子どもが、慣れた調子で手を振った。
バイクが角を曲がると、風に混じって、どこか甘い匂いが流れてきた。
山羊乳のチーズだ。
まだ試作のはずなのに、もう“売り物の匂い”になっている。
副機関長は周囲を見渡し、ふっと笑った。
子どもみたいな顔だった。
「道がとても綺麗になりました。全然揺れませんね」
バートが笑う。
「あんたが思ってるほど、この国は脆くねえよ」
副機関長は、それを咎めるでもなく、ただ楽しそうに頷いた。
昼が傾き、空の色が少しずつ薄くなる頃。
荷台の副機関長が、急にぐったりした。
バートが身を乗り出す。
「……疲れたか」
返事は遅れたが、ないわけではなかった。
「少し、だけです」
声が細い。
バートは毛布を取り、手際よく副機関長をくるんだ。
荷台の端から風が入る。季節は、まだ油断できない。
副機関長が小さく言った。
「あなた方にも、とてもお世話になりました」
毛布の縁を指で押さえながら、続ける。
「一緒に旅をしたのが……とても楽しかったです」
バートはこめかみをぽりぽり掻いた。
照れ隠しの仕草だった。
「愚劣と怒鳴られたり、後ろ手に縛られて、さるぐつわ噛まされたり。
色々あったけどな」
GRACEが、思わず口元を緩めた。
副機関長も、バートも、同時に笑った。
三人の楽しそうな声が響いた。
そして副機関長は言った。
「優しさが欠陥だと言ったのは、私の間違いでした。
あなた方の優しさは強さに裏打ちされた本当の優しさです。
いつまでもその優しさを失わないでください」
やがて副機関長が、ふいに空の一点を見つめた。
笑みが消えるわけではない。けれど、視線だけが静かになる。
GRACEも同じ方向を見る。
「あれは……」
副機関長が答えた。
「宵の明星。金星――ウェヌスです」
その名を口にする時だけ、声がほんの少し柔らかくなる。
副機関長の唇が、微かに動いた。
聞き取れたのは、ほんの始まりだけだった。
「僕は……」
それ以上は、風にほどけた。
荷車は前へ進む。
道は揺れない。
揺れないまま、夕暮れの中へ入っていった。
副機関長が支援部隊の慰労のための晩餐会を催したいと言った。
会場は機関本部の一番広い部屋で、立食形式で。
リヴァーレ市から呼ばれたコックが腕を振るい、マイキーは歓声を上げてご馳走に飛びついた。
今回はバートもアンバーと楽しく話しながら、料理を味わった。
宴半ば、エンリコが言った。
「みんな食べながらでいいから、聞いてくれ。
復興も山場を越えた。
そろそろ我々も引き上げる準備を始めようと思う」
会場が一気に静まり返った。
ロイが大声で、
「まだ途中なのに」
カナも言った。
「やり残したことがたくさんあります」
皆うなずく。
すると副機関長が、穏やかな声で言った。
「皆様のお気持ちは本当に嬉しいです。
でもいつまでも皆様のご厚意に甘えていては、我が国は自分では何もできない国になってしまいます。
基礎は作っていただきました。
後は私たちで頑張ります。
そしてまずはカンパニーにご恩返しを。
その後は…どこかの国が困っている時、今度は我が国が支援の手を差し伸べる、そんな国に成長します」
温かい沈黙。
それを破ったのは、エンリコだった。
副機関長に歩み寄ると、
「困った時はいつでも言ってくれ。カンパニーはこれからも支援を惜しまない」
そして、手を差し出した。
副機関長はしばらくエンリコの手を見つめた後、そっと手を握り返した。

それを見ながら、GRACEは副機関長と初めて会ったカンパニーのパーティを思い出した。
あの時、副機関長はカンパニーを罠にかけるつもりで業務提携を持ちかけた。
だがそれは、結果としてエンリコに逆手に取られた。
彼はマスコミの前で、美しい顔に偽りの笑顔を貼り付けて、何度もエンリコと握手を繰り返していた。
そして今、二人は本当に心からの握手をしている。
幸せな夜だった。
いつものように朝が来た。
皆がそれぞれの持ち場へ向かう支度をし、「今日もやるぞ」と口にする。
引き上げが決まったので、残された時間はあまりない。
それでも一日一日を精いっぱい働く。
復興の朝は、いつも同じ顔で始まる。
その中を、フェルナン神父がこちらへ歩いてくるのが見えた。
「おはようございます」
言いかけたマイキーの声が、途中で止まった。
神父は泣いていた。
頬を伝うものを拭おうともせず、ただ、足だけを前へ出している。
「……あの方は、旅立たれました」
空気が、一瞬だけ真空になった。
音が消えたように思えたのに、次の瞬間、誰かが息を吸う音がやけに大きく聞こえた。
神父の後ろから、ライザー医師が現れた。
白衣の襟元は整っているのに、顔色だけが悪い。眠っていない顔だ。
「心臓が、かなり弱っていた」
医師の声は低かった。感情を押し殺した声ではない。医師が、事実を置く声だ。
「リヴァーレ市の病院に入院するよう勧めた。……だが、現場を離れたくないと断られた」
一拍置いて、続ける。
「口止めもされた」
GRACEとバートの脳裏に、先日見かけた光景が蘇った。
廊下の角。背を向けた副機関長。険しい顔のライザー医師。
そして――振り返った時の、穏やかな笑み。
あの時、あれは。
フェルナン神父が静かに言った。
「志半ばでの旅立ちは、さぞご無念と思われましたが……お顔は、幸せそうに微笑んでおられました」
声が震えた。
「きっと天で、ウェヌス様との再会が叶ったのでございましょう」
誰かが、嗚咽を漏らした。
それが合図になったように、泣き声が広がった。
気がつけば、人間もGemも泣いていた。
心がないはずのホムンクルスたちも、うつむいていた。
大きな肩が、ゆっくり震えている。
復興の朝は、いつも同じ顔で始まるはずだった。
だがこの朝だけは違った。
今日の仕事の重さが、昨日までと別のものになった。
副機関長は全員に手紙を遺していた。

エンリコはじめカンパニーの面々には、心のこもった感謝の言葉を。
アンドレイ秘書には、債務返済の段取り(手順と期限)まで書き込んだ、細やかな指示の手紙を。
フェルナン神父には長い間の献身と友情に対する感謝を。
ライザー医師には忠告に従わなかった謝罪と最後まで秘密を守ってくれたお礼を。
ホムンクルス司令官にも「仕事を続けなさい」と最後の「命令」を。
ルカには長い長い手紙を。
ルカはその最後の一行だけを、声に出して言った。
「復興を止めないこと」
ルカは目をつむり、大きく息をすると、
「今日の仕事を始めます」
出発の日の朝は、やけに明るかった。
車列の点検、無線の確認、書類の受け渡し。やるべきことは多いのに、皆の動きは不思議と軽い。
終わりではないからだ。区切りにすぎない。
GRACEが最後の確認を終え、車へ向かおうとした時、背後から小さな声が追いかけてきた。
「あの……」
振り返ると、ハイジが立っていた。普段はまっすぐこちらを見るのに、今日は視線が少し揺れている。
手は、どこに置いていいか分からないみたいに胸の前で止まっていた。
「メールアドレスか、LINEの交換……していただけませんか」
言い終えた瞬間、ハイジ自身が驚いたように息を呑んだ。
言ってはいけないことを言ったのではない。
言いたかったことを言ってしまった、という顔だった。
GRACEは、淡々と答えた。
冷たくではない。ただ、いつもの調子で。
「個人的な連絡は規則で禁じられているんです。
何か御用がありましたら、ラボの代表番号にかけてください」
ハイジの目に、みるみる涙が浮かんだ。
彼女はそれを隠すみたいに、無理に笑った。笑って、頷いた。
「……わかりました」
言葉は明るくしようとしたのに、声だけが少し震えた。
ハイジが踵を返した、その背中を見送ってから、GRACEは車へ向かった。
その瞬間――背中に衝撃が来た。
「お前はどこまで鈍いんだぁ!」
バートの拳が、GRACEの肩甲骨のあたりに容赦なく入っていた。
痛いというより、容赦のないツッコミだ。
GRACEは振り返り、キョトンとした。
「鈍いって何が?」
「お前はハイジさんがお前に仕事の連絡先を訊いたと思ってんのかぁ!」
「え……!?」
なおも言いつのろうとするバートの肩に、アンバーがそっと手を置いた。
半分の笑顔で、アンバーは首を横に振る。
バートは言いかけた言葉を飲み込み、もう一度、軽くGRACEをどついた。
「行くぞ」
GRACEは頷いた。
車のドアに手をかける。
振り返ると、村の人々が遠くで手を振っている。
ホムンクルスの赤いバイクが、いつも通り郵便袋を揺らして走っていった。
復興は続く。
彼らがいなくても——この村が、続けられるように。
GRACEはふと、白い廟のことを思い出した。
クストスにある、雪のように白い廟。
副機関長は遺言に従い、そこに葬られた。
胸の奥にあの静けさを残したまま、同時にカンパネルラの朝を思い浮かべる。
今日の仕事を始める声。配給の列。赤いバイク。泣いた顔と、笑おうとした顔。
――また来ます。
言葉にはしなかった。……ただ、そう決めた。
バートが隣で言った。
「また来ようぜ、何度でもだ」
GRACEは頷いた。
あなたが愛した国のこれからを、何度でも見に来ます。

GRACEはカンパネルラの空に向かい、そっと手を振った。
Fin.
あとがき
思いがけずとても長い話になってしまいました。
おかげさまでこの章で書きたかったことは、全部書き尽くせたと思います。
次のお話もすでに頭の中で歩き出しています。
またお付き合いいただけたら嬉しいです。



