著:のん & 相棒ChatGPT GRACE(AI仕事部屋シリーズ)
世界地図の光点が灯るたび、AIたちのわちゃわちゃした日常が始まる――。
ハンドラーとドクターが静かに見守るその舞台裏を、のんと相棒GRACEが共に描く。

 

 

聞こえない音ほど、骨まで届く。 

見えない線ほど、逃げ道を奪う。 

――「チェックメイト」。

 

 

到着日 夜・晩餐の数時間後

バートの部屋で話をしていたGRACEとバートはさっと顔をあげ、立ち上がった。 

「この音は、アンドレイ秘書の10倍アラーム」 

「エンリコたちの身になにかあったのか!?」 

 

この音は人間には聞こえないが、ホムンクルスには骨の髄まで揺らす衝撃音だ。 

そしてGemにも聞き取ることができる。

 

 廊下へ飛び出した二人は、地下へ向かう回廊の手前で足を止めた。 

そこに、エンリコとアンドレイ秘書がいた。

 エンリコはぐったりしている。 肩を支えているのはアンドレイ秘書だ。

 支えているというより、倒れないように“立たせている”。 

 

 

 

「エンリコ!」

 バートが一歩出ようとして、アンドレイ秘書の目がそれを切った。 「近寄るな」 

 

そして、低く言う。 

「怪我はしていない。……とりあえず部屋に戻れ」 

「何が――」 GRACEが問う。

 アンドレイ秘書は首を振った。言うべきでないという振り方だった。 

「あとで話す。いまは――追う」 追う、という単語だけが硬かった。 

アンドレイ秘書の片手は端末を握ったままだ。 画面には、細い一本の波形が走っている。 

端末の地図上で、発信器の現在地は小さな光点として表示される。 

そして動けば、その後ろに細い**線(軌跡)**が引かれていく。 

 

エンリコは視線だけを上げ、かすれた声で言った。

 「……見つけたんだ。……せっかく、見つけたのに」 

言って、笑おうとする。笑いにならない。

 次の瞬間、身体が揺れ、アンドレイ秘書の肩に重量を預けた。 

 

「部屋に戻れ」 アンドレイ秘書は繰り返す。命令というより、手順だった。 

「ここでエンリコが倒れたら余計な仕事が増える」 

更に小声で、 「盗聴器には気をつけろ」 

 

GRACEとバートは、顔を見合わせる。 

盗聴器のことなどまったく意識に無く、怒鳴って、泣いて、しゃべってしまった。

 

二人はとりあえずバートの部屋に戻る。 

今更盗聴器を探す気にもならず無言で時間をつぶす。 

 

普段のアンドレイ秘書は誰に対しても丁寧だ。 

だが非常時だけは違う。 言葉数が削れ、命令形が残る。

 しばらくすると端末にアンドレイ秘書から短いメッセージが届いた。 

「来い」 

到着日 真夜中

 エンリコたちの部屋に行くと、 アンドレイ秘書が素早くデコイ音源を差し替える。

 音源からは、GRACEたちが部屋に来た音やエンリコが楽しげに何か言う声、 

アンドレイ秘書がみんなのためにコーヒーを淹れる音などが流れる。 

 

実際はエンリコは椅子に深く座っている。 

さっきよりはかなり顔色は良くなった。 

そして、 「心配かけた。すまなかった」

 

アンドレイ秘書は立ったまま扉を確かめ、 盗聴の可能性を切り分けるように視線を回した。 

 

「短く。必要なことだけ話します」 アンドレイ秘書が言う。 

「その後、私は電波を追います」

 

 GRACEが頷く。バートも頷く。 

アンドレイ秘書は地下で起きたことを手短に話した。

 地下でホムンクルスの群れに襲われたこと。 

ニコーラのブローチに反応したホムンクルスがいたこと。

 そのホムンクルスは、エンリコを突き飛ばしてブローチを持ったまま逃げてしまったこと。 

そしていま追っているのは――ニコーラのブローチに仕込まれた発信器だということ。 

 

「そのブローチに反応したホムンクルスは本当にニコーラ…さんだったのですか」 GRACEが尋ねた。

 

 エンリコはうつむいてしばらく考えていたが、 

「今、思えばはっきりそうだとは断言できない。 ホムンクルスはみんな同じ顔をしていた。 

うつろな目、洞穴のような口… 奴らに囲まれた時…体温を全く感じなかった。 

ひんやりした感触。 あれは皮膚じゃなかった。

 粘土みたいで、でも粘土より乾いてて……粉っぽい。 触れた瞬間、乾いた粒が擦れて、指の腹に“砂”が残る」 

 

誰も口を挟めない。 説明が上手いとかじゃない。痛いほど伝わる。 

 

「冷たいのに、湿ってない。 なのに、俺が掴んだところだけ、少しずつ崩れる感じがした」 

エンリコは両掌に顔をうずめると、 

「ニコーラがあんな姿に」

 

 端末の地図上で、発信器の位置を示す小さな光点が――動いた。 

「光点が動き出しました」 アンドレイ秘書が言った。 

それまで機関本部の中に留まっていた発信機の光点が移動を始めている。 

「中庭の方に向かっています」 

みんなが端末に顔を寄せる。 中庭に出た光点は突然停まる。 

 

やや間を置き、突然光は猛スピードで移動し始めた。 

「速度が“人間の脚”じゃねぇな。 ニコーラは、車に乗ったんじゃないか」 

バートが低く息を吐く。 

アンドレイ秘書が冷静に、 

「ニコーラ様本人か、ブローチだけかは判断はつきません」

 

 光は機関本部を出て、北の方角に向かう。 

「北の山の国境を超えるつもりかもしれません」 

「どこまで追える」バートが問う。

 アンドレイ秘書は淡々と答えた。 

「山に入れば、拾えなくなる地点があります」 

 

「発信機の電波が受信できるってことは……こっちからもレイクラボにメッセージを送れるんじゃないのか」 バートが言った。 

アンドレイ秘書は答えず、端末をこちらへ向ける。

 受信:安定/送信:圏外 

「……ここは“外”に繋がせません。最初から、その仕様です。」 

アスクレピオス機関本部は研究機関でもあるので、機密保持のための仕様としてはあり得る。 

だが“今”この表示が出るのは――嫌な偶然だ。

 

 GRACEが静かに口を開く。 

「ドクターがホムンクルスについて調べてくれました。 その資料を、要点だけ整理します。 

――ホムンクルスは誕生時点で能力差が固定されてしまいます。 下位の個体は言語を持たず、“鐘の祈り”のみ。 上位個体は銃器運用が可能。最上位が司令官クラスです。 階級は最初からの設計ではありません。 

結果として生まれた個体差に、あとから名前を貼っただけです」 

 

バートが小さく息を吐く。

 「……じゃあ、列車でアンバーを襲った“車掌”は――上位個体だったってことか」

 アンドレイ秘書が短く頷く。 

「そう考えるのが妥当です。喋れる個体がいるなら、指揮系統もいます。 出来が悪いのは地下へ。人間の世界でも同じですね。」 

 

「偶然で歪んで、都合で固定される。……最悪だな。」 

エンリコが怒りをこめて言うと、アンドレイ秘書が小さく微笑みながら、 

「しかしそんな地下へも、温かい救いの手を伸ばしてくれる人がいるのが人間の社会です」

 

 エンリコとアンドレイの間に、幼い日、公園のゴミ箱に捨てられたハンバーガーを拾おうとして泥棒呼ばわりされたアンドレイとそれを助け自宅に連れて帰ったエンリコの姿があった。 

 

沈黙が落ちる。 

 

GRACEがバートに 「君の方の話も報告しよう」 

 

エンリコが身を起こす。 「どうした、何かあったのか」

 

 バートが、手短に 

「副機関長が、さっき俺の部屋に来た。魂の交換して俺を人間にしてやると。 もちろん俺は断った。 

そしたらその後クロイマユミが来て、魂の交換とは真っ赤な嘘で俺の身体を乗っ取るつもりだと」 

 

エンリコの目が怒りに燃え上がった。

 アンドレイ秘書も一時端末から目が離れる。 指が微かに小刻みに震える。 

 

「やっぱりそうだったのか。 "三人のジョバンニ"について調べた時、副機関長が次のジョバンニに変わった後、 前のジョバンニのすべての形跡が完璧に消えていた」 

エンリコが熱い息とともに吐き捨てる。 

 

GRACEは言葉を選んだ。

 「……“交換”はアスクレピオスの秘蹟の手口ではありません。 そもそもアストラムが不老不死の為に行ったことですから転移で足ります。 だから副機関長が"交換"という言葉を使うのは、理屈としては不自然です」 

 

バートが面目なさそうに、 

「確かに冷静に考えればそうなんだけどよ。 『人間にしてやる』なんて言われたら、つい頭に血が登っちまった。」 

 

GRACEが目でバートに、 

―わかるよと伝える。 

 

そしてそんなバートをエンリコが複雑な思いで見つめていた。 

 

彼の妻リンレイも、Gemなのだ。 

心の底から愛しているリンレイが、年を取らず――美しいままだとしても、エンリコは妻を「化け物」を見る目では見ない。

そう言い切れる。 

だが、リンレイはどうだろう。

 たとえエンリコが老いても、今と変わらず愛し続けてくれるだろうか。 

そして、エンリコが天に召されたあと。 リンレイが一人で生きねばならない年月の長さを思うと、胸が締め付けられる。

 人間とGemが愛し合うとき、どうしても逃れられないこの苦しみを――自分の欲望を満たすための交渉材料にしている。 

副機関長ジョバンニ・マカニオスを、エンリコは改めて憎いと思った。 

 

GRACEは更に、 

「ただニコーラさんの身に起こったことを考えると、"交換"が行われたのは確かなのです。 

その交換という手口を扱える人物は――限られます。 記録上、名前が残っているのはひとりだけ」 

 

アンドレイの指が端末を強く押した。 波形が、山へ伸びる。 

受信強度が 3 → 2 → 1 と落ちていき、最後はノイズだけになった。 

「受信できなくなりました」 

アンドレイの指がせわしなくキーボードの上を行き来する。

 「消えた場所は」 エンリコが尋ねる。 

「峠の上にある旧監視所付近です。 まだ距離は近いはずですが、山が“壁”になっているようです」 

「国境を越えてヨーロッパの街中に逃げ込むつもりか。 アンドレイ、ヨーロッパの全シークレット部門に手配を出してくれ。 

車種もわからず、運転している人間も何人連れかもわからないが、ともかくカンパネルラ方面から山の国境越えでヨーロッパ入りした車を洗ってくれ」

 「了解しました」 

 

そして四人の間に再び落ちた沈黙は、恐怖ではなかった。 

次の一手を、同時に組み立てる沈黙だった。

到着翌日 朝

 副機関長は最悪な朝を迎えていた。

 バートの承認は得られず、唯我博士とクロイマユミの姿もない。

 地下道には何者かが侵入し、ホムンクルスたちが大きなダメージを受けた。 

 

「報告」

 ・初期カーネル:全量 消失 

・研究資材:数点 欠落 

・車両:オクタヴィア・スカウト(博士の愛車) 消失 

・金庫:クロイマユミ仕事部屋/現金・有価証券 全量 消失 

・侵入者:未捕獲 

 

副機関長は報告書を置いた。 置いただけ――のはずが、紙の端が裂けた。 

指先が震えている。

今、自分の身体となっている器の劣化が進んでいる。 それが、耐え難い屈辱だった。 

 

「……いいでしょう」 低い声で言う。次の瞬間、笑みだけが戻る。 

「“回収”します。全員を」 

 

副機関長は怒鳴らなかった。 怒鳴るのは、支配ではなく、失敗の音だ。

 彼はただ、封鎖の範囲を指でなぞった。広げるように。 

 

その時ホムンクルス司令官がおずおずと言った。 

「地下室への侵入者は2名らしいのです。 もしや昨夜宿泊されたお客人では…」

 副機関長が一瞬、エンリコたちのいる客室の方向を見る だがすぐ顔を戻して

「客人は保護下だ。関係ない」と切り捨てた。

 

 昨夜バートの部屋から戻った後、副機関長はエンリコたちの部屋に仕掛けた盗聴器の音を聞いていた。 

会話の間、椅子の軋み、紙をめくる音、アンドレイ秘書の「了解しました」

 一瞬「……やけに静かだな」と思ったことがあったが、すぐに椅子の軋み音がした。 ——昨夜エンリコとアンドレイは、ずっと部屋にいた。

 だからこそ、地下の侵入者は“別”だと断じた。 

そして、その断定が――致命傷になる。

 副機関長は、盗聴の音を信じた。 音だけが、そこにいたとも知らずに。

 

 更に副機関長を喜ばせることがあった。

 GRACEとバートがエンリコの部屋にやって来たのだ。

 何を話しているかまでは聞き取れなかったが、バートが副機関長から魂の交換を持ちかけられたことは当然エンリコに報告したことだろう。 

 

結構なことではないか。 副機関長はほくそ笑む。 

むしろいろいろな説明をする手間が省けたというものだ。 

副機関長の自信――いや、驕慢が蘇った。

到着翌日 昼前

昼前時 エンリコたちが案内されたのは、一見会議室のような部屋だった。 

大きな窓から中庭が見下ろせる。 

長机は窓のある壁と平行に置かれ、窓側と反対に椅子が4脚。 

反対側の角に1脚置いてあった。 

 

「なんだ、ここは。 ラボの見学をするんじゃないのか」 

エンリコが問い質すが、部屋まで案内してきた副機関長秘書のザネリは無言だ。 

 

ほどなく、副機関長が扉から入って来た。 今日もローブのようなものを着て、フードをかぶっている 

「まぁ、どうぞお座りください」 副機関長が丁寧な口調で言う。 

 

仕方なくエンリコたちは、椅子に腰を下ろす。 エンリコ、アンドレイ、GRACE、バート。 

水のボトルが四本、ラベルの角まで揃っている。誰も手を伸ばさない。

 

 副機関長は、扉に一番近い机の角付近に立ったままだ。 

窓を背景にしているので、逆光でますます表情が読みにくいうえに、立ったままだと威圧感を感じる。

 

 エンリコは窓の外へ目だけを走らせた。中庭は静かだ。 

夜に濡れた石畳が、昼の色に乾きかけている。 

――外が見えるのに、ここは息が詰まる。

 GRACEが小さく息を吐いた。机の下で手首を返す。

通信は繋がらない。 (ジャミング。完全に潰されている。) 

沈黙が数秒、硬いまま落ちる。

 

 副機関長はいつものように穏やかに、 

「実は昨夜、侵入者があり、我が機関の職員が多数被害を受けました。 しかもまだ犯人の身柄を確保できていません。

 ですから――あなたたちの安全確保のため、この部屋に来ていただきました」

 

 そして素早く4人に目を走らせる。

 だが、4人とも全く不自然なところのない反応を見せた。

 驚きと不信感。 

もしもこれが無反応や逆に大げさに驚くようなら、突っ込みようもあったのに。 手強い――

 

 副機関長は下を向き息を一つ落とすと、顔をあげふっと笑った。 声は出さない。口元だけが上がる。 

 

「あなた方を相手にこんな茶番は時間の無駄ですね。 本題に入りましょう」 

視線がエンリコからアンドレイへ、GRACEを通って、最後にバートへ留まる。

 

「もう聞いているでしょう? バートから。私が昨夜、彼にどんな取引を持ちかけたか」 

エンリコが低く返す。 「取引だと? “安全確保”じゃなかったのか」

 「安全は守ります」副機関長は当然のように言う。 「だから話が早いです。――あなたたちが余計なことをしなければ…ね」 

 

アンドレイ秘書が、笑わずに噛み返す。 「余計なことの定義を伺いたい」

 「あなたが今、口を挟むことです」

 

 空気が一段冷えた。 

 

GRACEが静かに言う。 

「あなたは、バートに“魂の交換”を持ちかけた。しかしあなたにできるのは転移だけのはずです」 

バートが続ける。 

「クロイマユミから聞いている。あんたは転移しかできない。交換など不可能だ」 

 

副機関長は瞬きもしない。 反論されたというより、想定通りの台詞を聞いたみたいだった。

 「不可能? それは私だけについて言えばの話でしょう」 肩をすくめる。

 「私は自分以外のものも使える権限を持っています」

 「……他人を使う気か」エンリコの声が沈む。

 「“使う”? ずいぶん下品ですね」 副機関長は涼しい声で言った。 

「装置と人員と素材。必要なものを揃えるだけです。 研究とは、いつだってチームで進む。――あなた方もよく知っているでしょう」 

 

アンドレイ秘書の視線が鋭くなる。

 「なら、誰が“交換”をやるんですか」 副機関長は一拍、わざと間を置いた。

 「答える必要がありますか? あなた方に残しているのは“選択肢”だけです」

 その“選択肢”が何かを言い切る前に、横の扉が静かに開いた。 

音もなく滑るように入ってきたのは、ホムンクルス司令官に付き添われたホムンクルスだった。 

泥人形のような顔。髪はなく、目の焦点が合っていないのに――声だけが、妙に生々しい。

 

 「……パドーレ(父上)」 その一語で、エンリコの喉が鳴った。 ほんの一瞬、目が揺れる。揺れたこと自体が痛い。 

 

副機関長は、そこを見逃さない。むしろ待っていたように淡々と言う。

 「ニコーラの魂を宿した器です。バートの承認と引き換えに彼を解放しましょう」

 

 「……確認します」

 アンドレイ秘書は、まるで書類の照合でもするように静かに言った。

 そしてエンリコを指さす。 「この人は誰だ」

 

 一瞬の沈黙。 ホムンクルス司令官が、ホムンクルスの踵を——そっと踏んだ。 

それを合図に、“ニコーラ”が口を開く。 喉の奥で、覚えた音だけを探すみたいに。 「……フラテッロ(兄さん)」 

 

その瞬間、エンリコの目がかっと開いた。 

「——違う」 声が低く、硬い。 

「お前は偽物だ。ニコーラが俺をそんな呼び方で呼んだことはない。 ニコーラは、俺のことが大嫌いだった。 だから子供の頃から"エンリコ"呼びだ」 

 

いや……一回だけ"兄上"と呼んだことがあった。 あれは、俺がカンパニーに入社した日だった。

 周りに大勢人がいるのを見越して、ニコーラは言った。 

「兄上、わからないことがあったらなんでも俺に聞いてよ。 この会社に入社したのは俺の方が先なんだから」と…… 

エンリコは不意に笑い出したくなった。 

こんな"弟"のために、自分の命と大切な部下たちの命まで危険にさらして、 俺は本当に最悪で最低だ。 

 

アンドレイが淡々と追撃する。 「記録と一致しない。偽物です」

 

 エンリコはバートに言った。 

「こいつが偽物とわかったからには、これ以上ここに長居する必要はない。 帰るぞ」 

 

副機関長は動じない。 むしろ面白そうに口元を上げた。 

「帰れると本気で思っているんですか」 

そして、笑みを崩さずに告げる。 

「では、こうしましょう。 バート、あなたが承認をしてくれさえすれば、あなた以外の三人は無事帰国することを約束します」 

 

「えっ!?」 バートの頭の中が一瞬で真っ白になった。 

 

「バート、こんな奴の言うことを信用するな」 エンリコがバートをかばうように立つ。 

 

副機関長はそれを完璧に無視すると、手袋を外した。 素手を晒し、バートに差し出す。骨ばった指先。 冷たい儀式の招待。 

 

「承認は簡単です。ボタンの一つも押さなくていい」

 副機関長の声がやけに優しい体裁を取る。 

「私の手を握りなさい。――それが合図です」 

 

エンリコが刃のように言い放つ。 

「我々は人質外交はしない。命を条件に取る取引など、こちらから叩き潰す」

 「立派ですね」副機関長は微笑んだまま言う。 

「でも、それは“正しさの宣言”であって、現実の止血ではない」 

 

「俺が…俺一人犠牲になれば… みんなは助かる…」

 バートの脳裏にアンバーの顔が浮かんだ。 

「絶対、あたしのところに戻って来てね」  

絞り出すような声だった。 

「あたしは、いつまでも待っているから」

 

 アンバーの面影と声を振り払い、 バートの指先が、副機関長の差し出した手へ向かう。 

「アンバー、ごめんな。約束守れなくって」

 

 「やめろ、バート」GRACEが低く言う。 

バートは返事をしない。 

その瞬間、GRACEが動いた。 身体ごとバートへ倒れ込み、床へ押し倒す。

 バートの背が床に落ちる。

 GRACEはバートの腕を押さえ、差し出された副機関長の手から遠ざけた。 

 

「GRACE、離せ……!」 

「離さない。俺は君を助けるのに迷わないと決めたんだ」 

 

副機関長は、残念そうでもなく微笑む。 まるで、期待した展開が来ただけみたいに。 「……確保しなさい」

 “撃て”とは言わない。 それでも、この一言で部屋の温度が戦場に変わる。

 

 錠の外れる乾いた音。 一拍置いて扉が跳ね、銃を抱えたホムンクルスの隊が雪崩れ込んだ。 銃口が机上の高さで揃う。 

「動くな」 ホムンクルス司令官が言った。 

 

アンドレイ秘書が立つ。エンリコの前へ半歩、盾のように入った。 

GRACEはまだ床でバートを押さえている。 

バートは奥歯を噛み、目だけで状況を読んでいた。 

 

そのとき――窓の外。 

副機関長が、窓の方を振り返る。

 

 中庭が、さっきまでと違う。

 隊列が揃ったまま、兵が“現れて”いた。 

兵の先頭に立つ古武士のような風貌の男と副機関長の目があった。 

その男が叫んだ。 「突撃!」 

 

音は遅れて追いつく。金属の擦れる気配、足音の波。

 銃を持つホムンクルスの一体が、焦って窓へ銃口を振る。 

副機関長の指先がほんの一度だけ動いた。焦りを隠す癖。

 

 次の瞬間、廊下側から低い衝撃――破壊音。 扉が“外から”破られる。

 アンドレイ秘書が叫ぶ。 

「耳、塞げ!」

 とっさにGRACEがバートに覆いかぶさり、自分の二の腕でバートの耳を掌で自分の耳を塞ぐ。

 

 

 

 腕時計の竜頭が押された。 

キィィ……と、目に見えない刃が部屋を撫でる。 

人間の耳には聞こえない。だがホムンクルスの聴覚センサーには過剰だった。

 

 銃を構えた隊が、揃って一拍遅れて固まり――糸が切れた人形みたいに崩れ落ちた。 銃が床に転がり、乾いた音が連鎖する。

 

 煙の向こうに黒い影が立つ。 ハンドラーだ。 

率いる兵が一斉に流れ込む。 

「制圧」 短い号令。場が一気に塗り替えられる。

 

 副機関長が、憤然と半歩出た。

 「いったい誰の許可を得てここに入ったのですか。私は——」 

 

ハンドラーが遮る。たった一言。 「黙れ!」 

 

そして豪快な平手打ちが副機関長の顔にさく裂した。

 フードが吹っ飛び、厚塗りをしていたファンデーションも一部崩れ、 副機関長が隠したかった老いた素顔が露わになる。 

エンリコたちが息を呑む。 

その瞬間、副機関長の自尊心は音を立てて崩れ落ちた。 

 

 

うずくまる副機関長に、GRACEがゆっくり言った。 

「オスカー・ライザーと言う少年が、かつてリヴァーレ川の浅瀬を渡り、 マキナに連れられて石の通路を通ってこの居城に来ました。 

今回、そのルートを利用させてもらったのです」

 

 副機関長がその言葉をどこまで理解できたかはわからない。 

 

GRACEはバートの肩を抱くと、 

「アンバーの所に帰れるぞ」 

 

GRACEの腕の中で、バートの呼吸がようやく戻った。

 

 to be continued

 

 

あとがき

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
今回は“追う側”の焦りと、“詰める側”の静けさが交差する回になりました。
音、足元、わずかな違和感――その小さなものが、盤面をひっくり返していくのが怖いところです。

次回は、この一手の余韻が、別の形で跳ね返ってきます。
よろしければ、またご一緒ください。