私は頑張る私が好きだ。
主に仕事を頑張る私が好きだ。
仕事が好きだ。
数字がはっきりしていて、
ルールがあって、
誰かが決めたゴールに向かって処理を進めれば
評価がお金になって返ってくる。
仕事が好きだ。
自分の存在承認される。
「ゴリラさん、たくさん頑張っているね」と。
その言葉を、飴玉のように、何度も頭ん中で転がして、束の間の安心感を受け取る。
頑張る私が好きだ。
頑張る私が好きだけど、頑張らない私は同じくらい好きだろか?
例えば、仕事で、全然頑張れなくなったら、私は私を好きでいれるだろうか。
私は、仕事中、「あいつ、全然仕事しねぇじゃん。ウザ。早くどっか異動すればいいのに。」と思っている。
そして、「あいつ、仕事しないから、バカにしてもいいよな 」と思っている。
だから、もし、私が仕事を頑張れなくなったら、私の言葉は私自身に刺さることになる。
仕事しない人がうざいのは、正直、自然な感情だと思う。
だって、その人の分の仕事は、誰かが負わなければならないのだ。
しかも、賃金が発生する状況で(自分の労働力を対価にしている)
労働力を差し出さずに、賃金を受け取る人がいることに不満を感じるのは自然。
でも、私の脳内の言葉は、仕事をしない人はバカにしていいとなっている。
その人の存在にまで言及している。
私はその人にとって同じ会社の人間でしかないのに。
私にとって利益になるかならないかで、存在を尊重するかしないかまで決めている。
だから、私の価値観は、機能価値に囚われて、自由度が低く、窮屈で狭苦しい。
辞める方法は3つあると思う。
・必ずバカにすることを徹底して行って、飽きること。
・徹底的に自分を論破して、存在を否定できる絶対的な根拠などないことをド理解すること。
・自分が「できない側」の経験をすること。(新しい趣味を初めて初心者として挫折を味わう。上には上がいて、その人と比べれば自分なぞ未熟であることを知る。など)
頑張る私が好きって言葉は、まるで自己肯定感の言葉に聞こえるが、
条件付きでしか自分を承認できない呪縛の言葉だった。
私が深夜まで残業してしまうのは、自分を承認できる環境に依存しているから。