「方便」という古い仏教用語があります。
この言葉の本当の意味があるとすれば、悟りを求めるきもちは、自分の自我から生まれます。
もちろんその流れの中で、そのような悟りを求める気持ちになったとらも言えます。
ただ、発想的には自分が悟りたいという自我からスタートしています。
すると非二元的には、自我が悟る事はできないのだから、自我がそのような克己心を持つことは、意味がないと切り捨てられてしまうかもしれません。
確かにそうです。自我である、エゴが自分が向上したい・・からです。
しかし、だからこそ、愛ゆえの言葉として、「 方便 」という言葉があるんです。
ここでの意味は、初めは、発心においては、自我が悟りたいと思わけです。
そして自我によって修行がなされ、修行によって悟るという結果を得たいとなるわけです。
悟りの観点からいうと、それがもうエゴの罠になっているとも言えるでしょう。
そこで釈迦的に言えば、そのエゴ、自我の発心の気持ちが、実は「方便」という事になるんですよ。となるわけです。
つまり始まりはエゴからでも構わないということです。
そこを意地つつくように、それもエゴだろうと裁く必要もなく、克己心を出して、精進することも善しとされているのです。
それが方便です。
結局、悟りの話をすると、「 だれがそれをやるのか? 」 その人がやるわけではなく、流れによってやっているだけで、やっている人もいない。という正当な答えになるはずです。
しかし、そこで方便なのです。 やはり、意識をそちらに向けなければ、ストーリーはじまりませんから、それはそれで善いのです。という答えなんです。
今日はかなり深い話になりましたが、自我やエゴというものをさらに見つめていくといつも不合理な感覚に襲われることになります。
ここは三次元、四次元が深かったので、どうしても表現できにくいのかもしれません。
方便として、きっかけとして行きましょう。笑
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