先日階段から転んだ後遺症なのか、右肩が力が入らなくて上がらなくなりました。
姉に話すと、「それは五十肩だ」と(笑)。
40代でも50代でも極端、70代でも名称は「五十肩」だそうです。
痛みは暫く続くそうで、こんな些細な事でも、やっぱり健康で普通に生活している事はありがたく、贅沢だと思いました。
昨日、敬愛するブログの先輩からある方のブログを紹介されました。
必死に病気と闘っている方の日々の記録です。
それに触発されたわけではないですが
いつか書こうと思っていた事を本日は書こうと思います。
私も数々の身内や友人を見送りました。
それでも、一番心に残っているのはやはり、最愛の母です。
母は、倒れるその日の朝まで、朝食を作り洗濯をし、家事をしていました。
「午後医者に行きたいから」と言われていたので、午前中で仕事を終え、家に戻りました。
胸苦しい感じでしたので、歩けないかもと思い
「救急車を呼ぼうか」と言ったのですが
「おまえの車で行きたいんだよ」と言って、玄関から歩いて私の車に乗り込みました。
しかし、病院について、診察を受けている時に心筋梗塞を起こしました。
心肺停止。
夜中まで心臓マッサージは続き、優秀な先生方のお陰で一命は取り留めました。
しかし、すでに自発呼吸は難しく、人工呼吸器を取り付けての闘病生活に入りました。
目を開けたのはほぼ3日後でした。
自分の状態にもかなり驚き、それなりの葛藤があったと思います。
食べる事はもちろん、飲む事もできない状態だったのです。
それでも、何を思ったか、筆談で話をしました。たくさんたくさん。
母が書いてくれたのは、みんなへの感謝、命を救ってくれた先生への感謝。そして家の心配。
2週間程過ぎて、また大きい発作が来ました。
結局救命救急に搬送され、10時間以上にも及ぶ心臓手術が行われたのです。
それから4ヶ月半、ICUに入ったまま、食事もついにすることなく、最後は眠るように息を引き取りました。
その4ヶ月半の間は、今までで一緒に暮らしてきて一番、濃い親子の時間を過ごせたと思います。
ジェスチャーで返事をしたり、アイコンタクトだけでわかりあえたり、洗髪をしてあげるととても喜んで。
いつも足の裏もマッサージしてあげると、足でトントンと御礼を言ってくれました。
ICUの中でも個室にいたので、時間に関係なく中に入れてもらえたので有り難かったですが、ICUの個室とは相当の重症だったと思います。
毎日が危篤なんだと先生からは念を押されていました。
私も毎日、本当に一日も欠かさず朝昼晩と母の元へ通いました。
睡眠時間は多分2時間くらいだったと思います。
でも、気力だけは充実して、母の元へ通える喜びの方が大きかったです。
亡くなる時は、逝った事も一瞬わからないくらい、静かでした。
ずっと人工呼吸器がパスッパスッと音を立てていて、実感が湧きませんでした。
母は、遺書を残していました。
倒れるその日に、メモで走り書きしたのでしょう。
「お前と一緒に暮らせて、本当に楽しかったよ。
いろんなところに連れて行ってくれてありがとう。
おまえはしっかりしているから、私は何も心配していないよ。
安心しているよ。ありがとう。」と。
あの日、母はもうこの家に帰って来れない覚悟をしていたのだ。
母は、4ヶ月半の間ベッドにずっといたけれど、
でも暴れたり、泣きわめいたりすることなく、
淡々と自分の命が消えるまでひたすら生き続けました。
だから、人は何があっても、
死ぬまで生きることが
この世に産まれてきた証なんだと思います。
今も、たまに母のあの暖かいぬくもりを思い出し、触れたいと思う瞬間があります。
でも、母は「いない」のではなく、私の心に溶け込んで、
共に生きているのだと思うのです。
私が楽しい時は一緒に楽しみ、哀しい時は一緒に泣いてくれる。
そうやって私の命をこの世に運んで来てくれた
父母そして祖父も祖母もそうやって、
今生きている私と共にいるのだな、と思うのです。
やがて私もオサラバしたら、きっと子供の心へ溶け込んでいくのかな。
それが、家族として延々と続く事なのだと思いました。
あ~~、長文になっちゃったぜぇ。
昨日の仕事の帰り、長野道上り線松代SAからの夕日。
