最近、気づいたことがある。

 

ちゃんと「自分の行動」に対して謝れる人って、

実はそんなに多くない。


なんとなくみんな、謝っているような気がしていた。


「すみません」「ごめんね」という言葉は、

日常にあふれているから。

 

 

でもよく見てみると、

それは本当の意味での謝罪じゃないこともある。

 

遅刻したときに理由から話しはじめる人。


誰かを傷つけても

「そんなつもりじゃなかった」と意図を説明する人。


約束を守れなくても、誰かのせいにしてどこかで自分を守っている人。

 

そこにあるのは謝罪というより、「自己防衛」。

 

 

人はたぶん、意図で自分を判断する。


「わざとじゃない」
「悪気はない」
だから、自分は悪くない、と。

 

でも現実は、結果で動いている。

 

待たせたなら、時間を奪っている。
ミスをしたなら、誰かの手間を増やしている。
冗談でも、傷ついた人がいれば、その痛みは事実として残る。

 

 

本当の謝罪は、意図ではなく「起きた結果」に向き合うこと。

 

 

「待たせてごめん」
「手間をかけてしまって申し訳ない」
「傷つけてしまったならごめん」

 

 

理由はそのあとでいい。

 

でもそれが、案外むずかしい。


謝るということは、自分の未熟さを一瞬認めることだから。

プライドを少し下げることだから。

相手の立場に立つという、ちょっと勇気のいる行為だから。

 

だからこそ、ちゃんと謝れる人は少ないのかもしれない。

 

 

そう思いはじめたきっかけは、
ほんの小さな違和感だった。

 

当日キャンセル。

当日リスケ。
遅刻。
頼まれごと。

 

それをする説明はある。

事情もある。それも丁寧風に。


でも、肝心の一言がない。

 

あれ?
この人、謝ってなくない?

 

その小さな感覚が、やけに残った。

 

一度気づくと、不思議なくらい目につくようになる。


今まで気にしていなかっただけで、
ちゃんと「自分の行動」に向き合わないまま流れていく場面は、

思っていたより多いのかもしれない。

 

そして同時に、もうひとつの事実にも気づいた。

 

 

私は、すぐに謝る側だった。

 

仕事柄なのか、性格なのか。
とにかく、ことを荒立てたくなかった。
空気がざわつくくらいなら、

自分が引けばいいと思っていた。

 

 

よく考えたら、悪くもないのに。

でも、それで丸く収まるなら、

謝ることくらい朝飯前だった。


そのほうが早いし、摩擦も少ないし、

余計な感情も残らない。

それが大人の対応だと本気で思っていた。

 

場を丸くするために。

空気を壊さないために。

関係を守るために。 

 

それは優しさだ。

 

でも続けていると、責任のバランスは静かに崩れていく。

 

 

謝らない人と、とりあえず謝る人。 

その組み合わせで、関係は成り立ってしまう。

 

片方が謝らないから、もう片方が謝る。 

 

だから謝らない側は困らない。 

変わらない。 

 

もしかしたら、「謝らない人が多い」のではなくて、 

今まで自分が謝って埋めていただけなのかもしれない。 

 

 

ずっと自分が埋めていた隙間が、
埋められなくなっただけなのかもしれない。

 

そう考えると、この話は誰かを責める話じゃなくなる。

 

自分はどうだろう。

ちゃんと謝れているだろうか。


それとも、悪くないのに謝ることでバランスを取っているだろうか。

 

 

この問いは、すぐに答えが出ないかもしれない。

 

だけど、そっと置いておくことにする。

 

それだけで、これからの選び方は、きっと変わる。