舌を頼りに 34年間食べもの絵日記を描き続けている 雑食性サラリーマンです。
近場芭蕉紀行2・岐阜市その1
今回大垣へ行く前に、久しぶりに「おくのほそ道」を再読(再々々々々々々読くらいかもしれないが)したのだが、はじめて低耳という人の存在に気が付いた。「おくのほそ道」には62の句がおさめられているが、そのうち50句は芭蕉の発句であり、11句が門人曽良の句だ。そしてあとの一句が、美濃の商人・宮部低耳が象潟で詠んだ『あまの家や 戸板を敷きて 夕涼み』という句なのだ。
古文の苦手だった私ですら魅了した「おくのほそ道」に、たったの一句とはいえ句が収められている低耳という人物に関して、俄然興味がわいてきた。そこでいろいろ調べているうちに、岐阜市内の妙照寺という寺に低耳の墓所があることがわかったので、これまた秋のよく晴れた休日にいそいそと出かけたわけである。
芭蕉は「おくのほそ道」の旅の前年、貞享5年6月に岐阜に一ヶ月ほど滞在している。「笈の小文」の旅を終え、「更科紀行」の旅に出るまでの間のことである。その際の岐阜での滞在先が妙照寺で、こちらには芭蕉が滞在した部屋がそのまま残されているし、滞在時に呼んだ「宿りせむあかざの杖になる日まで」という句の句碑もある。
何となく岐阜は芭蕉にゆかりのある土地だということは知っていたけれども、こんな重要な史跡があるとは、岐阜市民のくせして私は知らなかった。うかつなことである。信長や道三もいいけど、もっと芭蕉ゆかりの地であることをアピールしても良いのではないだろうか、岐阜市さんも。
貞享5年6月に、ここに滞在した芭蕉は、翌年の「おくのほそ道」に関する構想を、低耳らと話しあったのではないかというのは、妙照寺の住職の説だが、低耳は穀物商で、北国路には詳しかったようなので、芭蕉たちの旅が恙なくすすめられるように尽力したのだとしても不思議ではない。
だとすれば、旅の中盤の象潟で、低耳の句が唐突に一句登場することは不思議ではない。低耳の働きに対する芭蕉のねぎらいだろう。低耳は象潟で芭蕉一行と合流し、その後の芭蕉の宿所を何カ所か紹介している。なんと低耳は400年前のツアーオペレーターだったのだ。旅行会社で働く私から見れば偉大なる先人である。
そんなことを考えながらこの日私が昼に食べたのは、岐阜人のソウルフードである、冷やしたぬきそばである。更科本店には相変わらずの行列ができていたが、たまに無性に食べたくなるんだよねえ。
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