- Anniversary  Liveに向けて-                                          

   御礼とご挨拶 

Saito Myuと関わるすべての皆様へ  


1986年  9月21日に F M 東京ホールにて

「美雪」デビューコンサート開催と、同時に


キングレコードよりデビューシングル「雨あがり」と1st アルバム「フォトランダム」をリリースしてから、本年で40周年を迎えることができました。

 

これもひとえに日々わたしを支えてくれたすべての皆様のおかげです。心から感謝申し上げます。

 

デビューから40年、

今回の周年ライブ(9月19日 REAL  DIVA’S開催)の準備をする中で、過去、現在、未来を見つめる貴重な時間になりました。

 

いつだったか「美雪は2年の活動を経て急に表舞台からいなくなってしまった・・」 というネットの書き込みをみつけました。不思議でした。


知名度もなく頻繁にライブ活動をしてるワケでもない、40年も前の昔のことですから...わたし自身、美雪の存在は、時間と共にとっくに遠い存在。

 

でも美雪時代を知るファンにとってはそうじゃなかったようです

 

「あのひとは今」的に検索して現在のライブ情報に辿り着き会いに来てくださったり、スクールにカセットテープを握りしめてレッスンに来てくださったり、今でもあの2枚のアルバムたちを聞いてくださってるなんて・・・。


みなさんの思い出と共にずっと存在していることを深く深く知りました。音楽の存在のすごいことろです。

 

すべてを語ることはむずかしいですが、みなさんにこのタイミングで、デビュー前のこと、美雪時代のこと、それ以降のことを少し綴ってみようという気持ちになりました。すこし長文ですがお付き合いいただけると嬉しいです

                 

スタートは16歳の時、鼻歌でオリジナル曲(作詞作曲)を作ったことからでした。


当時何者でもなかった(歌手志望ではない)わたしは、曲作りをきっかけにピアノを弾きながら歌っていました。

そしてその16歳は、無謀にもCBSソニーオーディションに応募し、関東大会まで残り、


賞は獲れませんでしたがその時、審査員だった 

F M 横浜のアナウンサー八木健さんとCBS ソニーのディレクターの須藤晃さん(のちに尾崎豊プロデユースでブレイク)

このお2人からお声をかけていただき、

大変お世話になりました。


八木さんのご自宅で焼肉をご馳走になったり、

横浜のオシャレな喫茶店で制服のわたしに須藤晃さんは作詞のアドバイスをしてくださいました。

今となっては夢のような時間です

         


「短大に入ったらお化粧をしなさい」と母にいわれ、とりあえず自力でメイクをして、東京江古田にある「マーキー」でマンスリーライブを開始。

人生ではじめての主催ライブをした場所です。

 

緊張で足がガタガタしていることに気づいて、余計緊張してペダルをうまく踏めず、スタンドで固定された58マイクが口元にあることにまだ違和感がある時代です。マーキーの上野さんはそんな私をいつも温かく見守ってくださいました。

 

のちにそのマーキーでのマンスリーライブ終了後、人懐っこい笑顔で私の目の前に現れて、

「ぼくと一緒にお仕事しましょう」と言ってくださったのが、五輪真弓さんを世に出したプロデューサー永井良司さんでした。

「美雪」の誕生です   


そして永井さんの旧友、及川恒平さん(ペンネーム中原壮介・六文銭・作詞家・シンガー)と共に(共作)アルバム制作ができたことも大きな宝物になりました。

わたしに「 Saito Myu  Love Songs」というテーマで歌っていきなさいと言ってくださった方です。


それは、

① Saito Myuとラブソングたち 

② Saito Myuが歌たちを愛する  

この2つの意味があると。

「美雪、歌はさ〜アイラブユーなんだよ~」と熱く語る恒平さんはいつもわたしの心強い味方です


2nd.アルバム「翔ぶのがこわい」は、ミッシェルベルナルク率いるメンバーでの全曲パリレコーディングでした。


うまく歌えず、スタジオブースの中で、悔し涙が止まらず、気分転換にパリの街を散歩。


わたしにとって、はじめての海外が、パリレコーディングだったワケですから、今思えばプレッシャーでうまくコントロールできない自分への怒りにも似た感情の涙だったと思います。

 

雑誌、ラジオ、テレビ、各方面のプロモーションの先に青山円形劇場でのコンサートを経て....レコード会社からの継続のオファーがありましたが …

 

わたしはあの頃「本来の自分」と「求められる自分」との乖離を感じていました。勝手に求められる自分を作っていたのかも知れません。

今思えば。

 

だれにも、親にも、友達にも、

相談できない内面との葛藤です


江ノ島に行きました。

当時、私の話を聞いてくれるのは、

江ノ島の海だけ。


お醤油味の焼きはまぐりが癒しでした。

ほんとうにおいしかった。

そして美雪としてのメジャー契約を終了。

 

フリーになったわたしは渡米を考えていました。

得体のしれない脱力感。燃え尽き症候群です

それは誰のせいでもない・・・

わかり切っていることでした。

 

いつだったか、永井プロデューサーが、

「バンドやプロデユーサーは、フロント変えれば、やっていける、けど名前と顔と作品を世にさらす、フロントのアーティスト、歌手、は自分が商品だから、自分をやめるワケにはいかないんだ、だから孤独だし、だからアーティストが一番偉いんだよ」


と言ってました

 

彼がそれを言ったのは、自分の立場とわたしの使命の違いを伝えながら、今思えば精一杯の励ましだったと思います。

いろいろぶつかったけれど 正直で愛のあるプロデユーサーでした。感謝しかありません。

 

歌を作ること、歌うことを一旦休憩したい、

なんのために歌うんだろう…

エンターテイメントとは?  など


華やかな音楽業界の土俵にいるのが困難なら、

歌う資格がないと自分の価値を見失う、

挫折でした。

とにかく日本にいたくなかったのです

両親はもちろん反対。

 

しかしそこへ5年間のアメリカ留学から戻ってきた一人のミュージシャンに出会いました。


渡米を止められ、一緒に日本で音楽活動しよう!

ということになり再び曲作りを開始。


その音楽仲間たちとの出会いは、今までのキャリアをベースに土の奥へしっかり根を張っていったような時間でした。音を楽しむ、音楽の時間。

 

一方で美雪の担当だったディレクターたちが別のレコード会社に移籍。やがてそこで中堅的存在になられてわたしを思い出してくださり女優・声優などに楽曲提供のオファーをいただいた繋がりも本当に嬉しいことでした(MYU表記)

 

そして、素晴らしい経験をさせていただいたアジョッタ!2度目のメジャーデビューになります

(そうび企画・バージンジャパン同時リリース)


仮歌のお手伝い、というところから正式メンバーにラブコールがあったのが、アジョッタ!


トラディショナルロックバンドで、日本の和楽器を改造して電子和楽器を製作。昭和歌謡をロックアレンジ、洋楽も和にアレンジ、民謡テイストもありながら、歌とダンスパフォーマンスする、

津軽三味線の家元まで参加して日本の文化を海外に!というプロジュエクトでした

 

アメリカ、ロサンゼルス、あの老舗ロキシーでのライブは大盛況!海外の方の日本文化への好反応は、とてもとても、感動的でした!

 

アジョッタではシンガーソングライターの顔を捨てて、和の世界を乱舞。小さい頃から母方の祖母の影響で津軽民謡を聞いて育ったわたしには、こぶしを回して歌うことはなんの違和感もなかったし今思えばアジョッタは、歌手としての世界を広げてくれたと思います

 

美雪を知る人はびっくりするだろうな

イメージ違い過ぎる。

 雨あがり、から、おてもやん、ですから(笑)


どれが本当のわたし?と心がよぎりましたが、

結論は「どれもわたし」でした。

 

アジョッタはメンバー10名の大所帯だったので、

孤独を感じたことはなかったし本当に楽しかった。


今は月に一度(六本木 Z )昭和歌謡のライブで、

こぶし(解禁して)回して演歌も歌っています。

 

今 Saito  Myuは、シンガーソングライター、

という枠だけではなく「歌手」。

 歌の手を使う人、というスタンスに心が大きく変わったと思っています

 

昭和をリスペスト、昭和にタイムトリップ、を掲げて、わたしも昭和のデビュー。地味な存在でしたがニューミュージックといわれた時期の昭和歌謡のお仲間として楽しく歌ってます

恒平さんとの約束の通り

「 Saito   Myu   Love  Songs 」をテーマに!

 

そしてアジョッタから、しばらく時は流れ

「ボイストレーニング」

との必然的な出会いをします


はじめはバイト感覚でした。

歌は教わるものじゃない、って私自身、思っているタイプです(今でも)

 

しかし、歌を教える、のではなく、歌を歌う最適な環境づくり、ボディ作り、時にメンタル調整はレッスンという経験を重ねるほど、必須なんだとわかったことが私の大きな気づきでした。

                         

虚弱体質で心臓が弱い父が、「自分の余生は人の健康のサポートだ」と言い出し、針灸マッサージの国家資格を取得。


父から「息を吐く力が弱い人は心身ともに弱くなる」といつも聞かされていたわたしは、目の前の人の呼吸・発声のメンテナンスと参考文献を集めるのに没頭しました。


どんどん目の前の人の呼吸、発声、その先の歌、が上手にコントロールされてゆくのが楽しい楽しい!


生徒さん自身も心身ともに自由になってゆく

喜びにあふれた姿、自分がうまく歌えた時より、

何十倍もうれしい感覚です


そしてトレーナー歴10年目の

2008年3月16日付けで渋谷区千駄ヶ谷にボーカルスクール「Artist Campus・アーティストキャンパス」を設立。スクールは本年で18年目になります。(現在はオンライン中心に運営)

 

第一線で活躍されているアーティスト、ミュージシャン、歌手、声優、女優、某会社の社長、公認会計士、アナウンサー、パイロット、小学生から大学生、書道家、陶芸家、サラリーマンから一般の主婦、までプロアマ問わず、各方面の方々の呼吸・発声のメンテナンスをさせていただいています

 

こうした一つ一つを振り返ると、ボイストレーニングを通しての出会いの大きさは想像以上です 

 

今回9月19日のライブは...

昼のゲストの小野ひとみさん、古賀いずみさん、

は歌を続けていたから繋がっていた2人、


夜のゲストの本名陽子さん Shao Kineさん、

はボイストレーナーをしていなかったら出会っていなかった2人、です

 

バンドメンバーもわたしが昭和歌謡を歌いたい!と思わかなかったら六本木で出会ってなかった。

全部、歌で、繋がっています

すべてが、偶然のようで必然だったこと


人生は出会いでできてますね!

ありがたいことです

 

私に呼吸の重要性を教えてくれた父も現在、91歳になりました。歩くのがやっとですが元気です。

母は88歳、このライブを配信で楽しみにしてくれています。


 父が教えてくれたすべては A.C.メソッド(スクールのオリジナルメソッド)に反映され、教え子たちがそれを継承してくれることを信じています


自分の寿命はわからないけれど....

尽きるまで、いのちを燃やしたいです


今後はボイトレの本、を書きたいし、

昭和歌謡ライブもまだまだ楽しそうだし、

オリジナルやカバー曲のピアノ弾き語りライブも!

Myu先生ホストで、ボイトレ付きのオープンマイク(カラオケ大会)も楽しそうですね!


地球という森の中でみんなで楽しく、永遠にキャンプしてるみたいな心で、助けあいながら、学びながら遊びましょう!(世界平和のイメージ)

 

いままで、大切にし過ぎて言えなかった言葉、

見せなかった気持ちをとじこめてた箱、


「宝箱の蓋」をそっと開けて・・・

1つ1つ手のひらにのせて「ありがとう」を

言えた気分です


ここまで読んでくださり

ありがとうございます

 

 振り変えれば、

やはり私の歌手人生のスタートは

「美雪」でした。

 そして40年前の「美雪」に伝えたいことは、

「これから、いい出会いがたくさん待っているよ」ですね! (笑)


 感謝を込めて! 

「Thanks  for   being   in   my   life.    

 私の人生にいてくれてありがとう」

これからもどうぞよろしくお願いいたします

 

地球上で起きているさまざまな災害、争い、

一日も早い終息、復興、

日常を取り戻せますように

皆様がいつも 心健やかでありますように 

心から願って 

 

Saito  Myu      

2026年  9月9日