データを重んじるのが科学だが、データに頼り過ぎて思考力を失いつつある。 数値に固執すれば見えるものも見えなくなる。
データはあくまで参考、裏付け、後付けであり道理・理論とは関係がない。
最も重要なことはデータを集める前であり、分数計算では分母を揃えると言うような理に適ったデータかどうかだ。
憶測から1年間データを取り続け、それを科学的と言うのもバカバカしい。
ただ調べただけであり、目的も不明瞭な観察データ。
そして必ず「思われる」「考えられる」という曖昧な感想で終わらせている。
データは単なる結果であり、理由を解明する理論ではない。
だから、誰もがはっきりした答えを出せない。
生命に関する多くの資料・動画などを見る度にそれを感じている。 野人思考の理に適ったデータ収集はほとんどなく、徒労に終わるはず。
それを指摘している人もいた。
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「データがあれば間違いない」—— この考え方は一見合理的に思える。
データの存在が安心感を与え、その結果、多面的に考える機会を奪ってしまう。
データの存在によって「自分で考える」という行為そのものを放棄してしまう」
自分の言葉で考え、表現する機会を失い、長期的に見れば、これは多面的思考力の低下につながる。
同じように感じている人もいるだろう。
多面的、立体的に考えないから最初から支離滅裂になるのだ。
これでは機械科学と違って生命の科学は永久に答えを出せない。
私的感想はいいから明確な道理で答えを出す、これが学者の使命ではないのかな。
「思われる」「考えられる」などの無責任な言葉を使うべきではなく、使わざるを得ないなら「定かではない」のだから公開しない方が良い。
間違っていたら「ごめんなさい」と誤れば済むことなのだが、「責任をとらずに済む」保険をかけている。
学者に頼るよりも自分で考えた方がはるかにマシで、間違ったら反省して新たな思考が目覚める。
判断を間違えて痛い目に遭っても報われれば救われるが、聞いて覚えて他力本願で自身の運命まで世間に委ねれば悔いが残るはず。
「何で‥自分が・・こんなことで」と・・そう思わないかな。
二人に一人がガンになる時代だから仕方ないとあきらめるしかないのかな。 心臓病、糖尿病、花粉症、認知症なども同じ。
闘病と言われるが、病とは闘うものなのか。
それに病の原因がわからなければ戦えないはず。
生命に関する学問の分野は顕微鏡を必需品として、人体、植物、昆虫、微生物など半世紀以上新たな発見に奔走している。
有効な成分・養分、ビタミン、ミネラル、食物繊維、酵素、適度な運動、生活習慣・・不調は何が原因で何が重要なのかさっぱりわからない。
私的な意見・感想ばかりで理想的な見本として実践して見せることもない。 そしてまったく結果が出ない。
何故そのようなもの何十年間も信じて大勢が健康法を実践するのか野人には理解出来ない。
そもそも健康は考えて努力するものなのか。
地球上では「人間しか困っていない」人間病ではないのかな。
人間の「間違った学問」から生まれた、そう判断するのが妥当だが。
ペットや家畜や野菜果物などの不調は、その「とばっちり」を受け、その間違いを教えてくれているとは考えないのかな。
「何故人間と同じような不調に陥るのか」・・そこから新たな思考は始まる。
現実は物理で成り立ち、生じる現象は精神ではなく物理で解決すべきこと。
生命は機械よりも比べ物にならないほど高度な仕組みを持つ。
自然科学、生物学を暗記科目ではなく、仕組みが明確な物理と認識することから始めなければ現状は変わらない。
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