人は理解出来ないことがあると「不思議」と言う言葉を使う。世界の七不思議もそうだ。野人は子供の頃からほとんど不思議と言う言葉を使ったことがない。驚く事もほとんどなかった。小学生でありながら深夜に一人、幽霊が出ると言う墓場へ出向いた。「何で出るんだ?」「足の構造を見せろ」と問いただす為だ。幽霊と喧嘩になっても負けたくないから手裏剣と木刀で武装して出向いた。それだけ恐怖よりも好奇心のほうが勝っていた。道理を知りたい気持ちが強かったのだ。まあ、「何で?」も「不思議」も同じようなものだが、違いは立ち止まるか先へ進むかだ。とにかく面倒な感情は飛ばして先の道理追求へ行きたがった。女の幽霊が出ようものなら、会話は後回しにしてスカートをペロっとめくって足を確かめるような性格だったのだ。それでも山姥とゴジラとアブラムシだけは恐怖の対象だった。自然界との付き合いが長いと森羅万象の道理が理解出来るようになる。物理、科学、生物などの基礎を学んだ事もあるが、人が解明出来ない部分は感じ取り、数式や理論で説明出来るようになった。そうなるとますます「不思議」な事はなくなってしまった。可能性があり得るならおかしくはない。宇宙の全ては成るべくして成る。この世で起こったことにはすべてにおいて道理があるのだ。ピラミッドも同じ事だ。現在の建造技術を持ってしても困難で目的も解明されていない。あんなものがあると科学者は頭を悩ますことだろう。古代人のほうが「賢い」と言うことになる。気やエネルギーの世界も科学をさておいて現実に一人歩きしている。科学はまだわからないことのほうが圧倒的に多いのだ。物質も生命も全てのものは超微粒子、電子から成り、形を変え続けるが、全宇宙の質量は変わらない。気も霊もテレパシーも予知も道理に合わないことでもなく、スプーン曲げのように、人の電子が物質の分子構造を変えてもおかしくもないのだ。木や草だって無から有を生み出している。水と二酸化炭素を別の形に変えているからだ。未確認飛行物体が羽根もローターもジェット噴射もなく空中に静止出来るのも道理はある。重力があるなら当然反重力がある。水の浮力と同じように±0にすれば簡単だが人の技術はそこまでは行っていない。人はどうしても自分の物差しで判断、心が動く。テレビ番組の「世界一受けたい授業」の理科でも、科学者から見れば何でもないことでも視聴者は驚き感動して、「不思議」を連発する。学校で習ったことが多いのだが、理論が身についていなくて学校の勉強の世界で終わっているからだ。手品もタネを明かせば何だ・・と納得する。中にはタネのない超マジックもあるが、それにも道理があるから野人は楽しく見ている。人を楽しませるのは良いことだ。力を使って人を惑わせたり、騙すよりはるかに良い。俗に言う「超能力」と言うものなら野人も幾つか持っている。それは生き物なら持てる能力だが、頭が進化して重たすぎて発揮出来ないだけの話だ(笑)。気の科学で幾つかは紹介するが、他はやめておく。人に言うものでもないし親も知らないことだ。人間は「超能力」に弱い。しかしそのようなものを崇めたてることはない。サイババにしろ怪しげな教祖にしろ、それが本当に出来たからと言って特別なことでもなく同じ人間だ。人間にとって一番大切なことは、何が出来るかではなくその人の心だ。慈悲の心を持つ人間なら、考え方がどうであろうが、少々性格が悪かろうが野人は気にしない。生き物の能力を超えるものなどこの世には最初からないのだ。