茶話会に出席された方から紹介されて、本を読みました。

(注意喚起) 

 心に荷物を抱えている人はこの本は読まないほうがいいです。

 あまりに重すぎますし、あなたの問題を解決するための役に立つとも思えません。

 

『傷の声』齋藤塔子著 

 著者の略歴

 1999年生まれ、2022年東京大学医学部健康総合科学科卒業 

 卒業後は内科の病棟看護師を経て、精神科・児童思春期精神科クリニックの看護師となる。

 

 

 

 

 読後の後味の悪さ、というかやるせなさ、というか怒り、というか……。

 1日半くらい、笑えない心理状態に陥りました。

 内容をかいつまんで紹介します(自分の言葉で説明できる客観性がまだ持てないので、以下、ネットからの引用です)。

 

 https://addiction.report/RuiZakoji/kizunokoe-miyamoto-1

 (以下の文章は、フリーライターの座光寺るいさんという方が書いたものです。『傷の声』の著者である齋藤塔子さんの恩師である宮本有紀さんをインタビューしたときのものです)。

 

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「傷の声」は、著者の斎藤塔子さんが、主治医と相談して決めた入院だったにもかかわらず強制入院として処理され、行動制限をうける衝撃的なシーンから始まります。

 塔子さんは、支配的な父親とそこから抜け出せずにいた母親のもとで育ち、「自分は消えたほうがいい存在だ」「死んでつらさを無にしたい」という気持ちを慢性的に抱くようになっていきました。

 こころの痛みから意識を飛ばすためにアルコール摂取とオーバードーズを、意識を感情から身体に持っていくためにアームカットを繰り返し、高校生で支援につながると「複雑性PTSD」と診断がつきます。その後東京大学に進学し、精神看護学を学んだのちに看護師として働きました。

 本の前半では患者でもあり看護師でもあるがゆえの葛藤と苦しみが描かれ、十数回に及ぶ入院と過酷な体験の描写を経て、後半では家族との関係を考察していきます。

精神看護学を勉強し、どうにもならない思いを抱えながら他者をケアし続けた塔子さんの言葉には、読者を圧倒する迫力と知性がにじみ出ています。

 私は「傷の声」を読み終えると、会ったことがない彼女を思い、塔子さんの恩師にあたる東京大学精神看護学分野の宮本有紀先生に話を聞きに行くことにしました。

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 ということで、宮本先生へのインタビュー記事へと続くわけです。

(このインタビューの内容も私にはなんだか宮本氏自身、「学術的」な精神看護の域を出ることができず、何とも物足りないものでした。上記リンクからお読みください)。

 

 上記にもある通り、この『傷の声』の冒頭には、身体拘束(ほぼ3週間)をされた著者が自分の言葉でその事実やその時の感情を綴っています。

 東京大学卒業といういかにもインテリらしい分析的で明晰な言葉によって、身体拘束の非人間性を訴えています。体験した者にしかわからない「人権の軽視」や「懲罰的」な「治療」に対する疑問、というより告発。

 体験者ならみな「そうそう、よくぞ書いてくれた」と快哉を叫びそうなほどのインパクトです。

 

 しかし、皮肉なことに、その彼女が看護師という立場で患者さんを身体拘束する場面があるのです。

 いかに著者が身体拘束によってトラウマを抱えることになったか、それを文章化しているにもかかわらず、その本人が拘束を行う。想像しただけで、心が病みそうです。 

 

 著者の家庭はかなりいびつなものでした。そうした環境で育った著者は自分のことを「基底欠損」と考えています。「基底欠損」とは要するに幼少期、家庭内で「生」への確かな基盤を築けないまま大人になってしまった、ということです。

 また、著者は自分のことを「多くのヒビが入った湯船」とも表現しています。いくら他から愛情を注がれても、それはいっときヒビに絆創膏を貼るようなもので、「愛情」という水が溜まっていくことはないと。

 すでに多くのトラウマを抱えていた人が、精神科の治療でさらなるトラウマを受け、そのうえ同様の行為をせざるを得ない職業に就けば、やがてパンクしてしまうのは、当然といえば当然と思います。

 自身の生い立ち等から精神科に親近感を抱き、同じ苦しみを持つ人たちに寄り添いたいという、体験者だからこその思いがあったのかもしれませんが、人の心はそれほど強くないと思うのです。

 精神医療で受けた被害、そして、否応なく背負わされたトラウマやPTSDは、どんなに歯を食いしばって戦っても簡単に勝てる相手ではないです。

 しかし、残念ながら、著者自身も、周囲も、そういうふうに考える人はいなかった。

 あなたの体験をもとに、きっといい医療者になれるよ。

 そういう応援の声がいくつもあったのだろうと思います。

 

 著者は高校生の頃から不眠症となり、精神科に通うようになりました。

 家では父親が暴君(モラハラ)で、恐怖の夫にひたすら従うしかなかった母親は子どもたち(兄と著者)を守ることができなかった。「生きていてはいけない」「死ね」という明瞭な言葉ではないものの、通奏低音のようにそうした「空気」が流れる家で育てば、誰だって精神的に追い詰められます。

 やがて、薬は増えアルコール、アームカットとODが始まります。

 身体を痛めつけることは、「精神的な痛み」を「身体的な痛み」に置き換えるためにどうしても必要だった。

 自殺未遂も何回もしています。

 そして、この本の原稿を書き上げた(2024年4月)翌月の5月に、本当に自死してしまいました。まだ26歳。本の出版を見ることなく。

 本書は自身の人生のこんがらがった糸を一つ一つほどいていこうと、「客観的」に自分に起こった出来事を見ようとしたその軌跡です。自分の母親にインタビューしたり(あのときはどういうつもりでああいうことを言ったのか、とか)、同じ親の元で育った兄へのインタビューを実施したり、そしてできるだけ冷静に自分の心の中を覗き込もうとしています。

 そして、書き上げて1カ月足らずでの自死。

 そこには「自分の人生は解決不可能」という思いがにじみ出ているように感じました。

 そもそも「基底欠損」の人間だとしたら、探り続けて出てきたさまざまな事象(多くが避けて通りたいような事象)を受け止めるだけの「器」を作りようがなかったとも言えます。

 誰も著者の書きたいという意志を止めることはできなかったかもしれませんが、書き終えてすぐの自死。私にはそこが何ともやるせないです。

 

 そして、もう一点、肝心なことがあります。

 精神看護という職にありながら、この本には自身の投薬に対する疑問の言葉が一言も記されていないのです。

 以下引用します(本書、45ページ)

「高校生の時から睡眠薬を飲みはじめ、もうそれを飲まないと一睡もできない体になってしまった。

 私は毎晩15錠、不安時や不眠時の頓服薬も含めればそれ以上の薬を飲む。抑うつ症状に対処するための抗うつ薬が3種類6錠に加えて、睡眠薬が4種類4錠。この時点ですでに3種類以上の同系統の薬を出してはいけないという処方のルールに反しているのだが(注・さすがに精神看護師なのでこの手の情報はしっかりもっているわけです)、それでも眠れない。そのため感情を安定させる効果も期待しつつ、頑固な不眠に対処するねらいでさらに眠気を誘う抗精神病薬が2種類4錠。これだけ薬を飲んでいると手が震えたりといった副作用が出るため副作用止めを1錠。これが「眠れない、眠れない」と訴える私に、精神科の初診から約10年、歴代の医師が四苦八苦しながら現時点でたどり着いた薬のセットである。これでやっと気絶するように眠れる夜もあれば、これだけ飲んでも寝つきに時間がかかる夜もある。」

 

 これだけ飲んでいれば、頭は錯綜し、衝動性は高まり、「死にたくなる」のも無理はないと思いました。こんな処方をする医師をどう信頼すればいいのか、わかりませんが、著者は信頼しているようです。

(余談ですが、これはマイケル・ジャクソンの不眠と同様で、そのうちに「プロポホール」だって出されかねません。)

 

 著者は、「自傷していないと生きられない私」と自認しつつ、アームカットを実行するわけです。それはもちろん著者自身が抱える「複雑性PTSD」の影響が大きいのかもしれませんが、あれだけ飲んでいる薬の影響を無視して語ることはできない(はずなのに、誰一人語っていないのです)。

 以前、私はある女性の取材で、左腕を見せてもらったことがあります。すでに傷口は癒えていましたが、手首から二の腕まで数えきれないほどのアームカットの痕がありました。「痛みを感じたり血を見ると心が軽くなる」と彼女も言っていましたが、会ったときはすでに大量に飲んでいたベンゾを死に物狂いで断薬し、と同時にアームカットも治まっていました。

心に抱える荷物の重さを少しでも軽くするため、薬は必要な時期があるかもしれません。

 しかし、向精神薬は決して問題そのものを解決してくれないのです。それどころか、抱えた問題をさらに「複雑、重症化」させる傾向が強いです。

 精神安定剤をいくら飲んでも本当の意味で心が安定することはなく、それどころか飲めば飲むほど「心は不安定」になっていきます。(ベンゾという薬の特徴です)。

 多剤大量処方した医師はよく「この人にはこれだけの薬が必要だった」という言い方をします。その意味ではこの著者も同様の考えのように読めます。

 だとしたら、過酷な状況にある(あった)人は、大量の薬を飲むのも致し方ないということになります。

 が、この状態で減薬などしたら、あるいはもっとひどいことになっていたかもしれません。だとしたら、それこそ死ぬまで飲み続けるということです。

 この状態がまさにこの本の結末です。

 本の解説をしている松本俊彦さんはこの本(死)を美化する言葉を述べていますが、違和感を抱きました。

  おそらく小説ならとても印象的でインパクトのある物語として読めるでしょうが、これは精神医療にかかりながら自死を選んだ現実のケースなのです。精神医療にできることには限界がある。それはそうです。でも、やらなくていいことやっているのが現行の精神医療だと思うのです。

 本の中で著者が強く訴える「言葉の処方」(優しくすべてを受け止めて適切な助言を与える精神医療)はもちろん重要だし、ぜひとも必要な「処方」ですが、「言葉の処方」を充実させる前に、問題となるのは、「過剰な薬の処方」ではないかと感じます。そして精神医療に決定的に欠けているこのことを指摘する人は、この本には登場しません。残念です。

 

 もう一度書きます。

 心に荷物を抱えている人はこの本は読まないほうがいいです。

 あまりに重すぎますし、あなたの問題を解決するための役に立つとも思えません。