今日で社会人3年目が終わる。
今半期は本当に怒涛のように過ぎていて、
でも気づくと毎半期いつも同じように怒涛のようで、
結局、これまで怒涛のようでなかった時期なんかないことに気づく。
最近はあまり言われないけれども、
「若者は3年で会社をやめる」とかなんとか、
そんなことを言われていたこともある、社会人としての3年間。
何にもうまくいかなくて、毎日が辛すぎて死にそうな気分だった頃もあり、
今になってみれば、P4という役職にまで上げていただき、
ひとつの事業部を任されていたり。
そんな中で、明日から11年度の新卒が入社してくる。
この機会だから、柄ではないけども、自分のことを振り返りながら
新入社員のみんなに向けてメッセージを書き残しておきたい。
(まるで辞める人間のようだけど、辞めません)
自分の社会人1年目。
武器になるものは何もなかった。
自分がどんなことをできるのかもわからなかった。
会社に入ったのも
「成果を出した人間には自由な挑戦をさせてくれる」
というところだけがほぼ志望動機のすべてで、
入って何を具体的にするか、なんていうことは考えていなかった。
ただ、「将来はメディアを作りたい」という思いだけはあった。
自分がメディアを作り、日本中を元気にするような仕事をしたいと思っていた。
そんな中で志望したのが現在もいるCyberX。
配属先を考えていたときは、まだ設立準備中だった。
業務内容は当時ネット上で有望市場と見られていたモバイル市場での、
サイト受託制作業。
話を聞いてみると、最初は営業から始まるけれども、
いずれキャッシュフローができた段階で自社メディア開発に乗り出す、
というビジョンがあるということだった。
ベンチャー企業の中のさらにベンチャーな部署(子会社)ということで
正直いって、想像できる範囲だけでも大変さが容易に想像できた。
志望するのをためらったのも覚えている。
でも、当時の自分に何もなかった以上、
「どうせなら一番きつい場所で無理やり成長してやる」
という、今思うとなぜそんな悲愴な決意めいたことを考えたのか不明。
また、同時に決心していたのが
「なにがあっても三年間は耐え抜いて、辞めない」
ということでもあった。
ともかく、悩んだ末に志望したCyberXに配属となった。
実はもうひとつ、別に志望していた第一志望があったりしたのだけど、
そのあたりの経緯は割愛。
配属されると、怒涛の新規営業の日々が始まった。
来る日も来る日もアポ電をかけては断られる日々が続き、
受注どころかアポ自体をとるのにも毎日悪戦苦闘。
毎日終電で帰り、2時寝6時起き、7時くらいには出社していた。
成果を出すために必死で動いていたけど、成果は出なかった。
余談ながら、この頃はしばしばN常務とビルの1階で遭遇した。
役員の方だというのに朝7時半には出社しているという現実を肌で感じ、
やはりこの会社は並ではないと思った。
初受注は8月2日だったことを今でも覚えている。
配属から3ヶ月目。
しかし、それからも特に波に乗るということはなく、
また3ヶ月間、受注できない月が続いた。
10月ごろには、本気で会社をやめようと思うことも多くなっていた。
大学院にでも戻ってまた勉強しようかとも考えていた。
ニコニコ動画で松岡修造をみて、自分を奮い立たせていた(実話)。
そんなことがあり、年が明けて1月になると、
月末には無理がたたったのかインフルエンザになった。
このとき、「精神力で抑えられないくらい身体にガタがきたか」と本気で思った。
精神力でずっと耐えていたけれども、身体にとうとう影響がでた。
そう思ったとき、それまでよりもずっと本気で仕事を辞めようと考えていた。
それでもやめなかったのには色々と理由があるが、
「なにがあっても三年間は耐え抜いて、辞めない」
という決意をゆるがせることで、
自分を裏切ることが怖かったのかと、今にして思う。
そんななかで色々とあったけれども、
さまざまなサポートや、引き継いだ案件などがあり、
2月になると初めて自力での受注目標を達成できた。
3月にはCyberXがCAJJ賞を受賞。
このときは本気で、死んでもいいと思うくらい嬉しかった。
4月から2年目になると、
職種はプロジェクトマネジャーになった。
サイト制作のスケジュール管理や細かいところの作業をこなしていくうえで、
モバイルサイトやWEB周辺技術について学ぶことが多かった。
しかし会社としては数字があがらず、
自分としても貢献したとは言いがたい状況が続き、
明らかなジリ貧状態になっていた。
そんなおり、2009年11月をもって会社が業態変更となることが決定。
12月からはソーシャルアプリ事業を手がけるということになった。
今だからこそ言えるけれども、
このときは正直いって、
「自分の時代がきた」
と思っていた。
・・・というと語弊がありすぎるけれども、
配属希望を出す前に考えていた
「いつかはメディア事業を」
ということが、降って湧いたように現実になった。
それが、自分にとって僥倖でないはずがないと思った。
とはいえ、もちろん自分はソーシャルアプリなどやったこともないし、
それどころかまず触ったことすらほとんどなかった。
自分の感覚は一般よりもずっとニッチ寄りだとも思っていたし、
成功する自信があったわけではなかった。
業態変更してから企画を考える日々が続いたものの、
案の定、ロクな企画が出せなかった。
「一般に受ける企画」という部分において、
自分のセンスは(予想通り)とてもズレがあった。
1ヶ月ほどの間は、企画がかすりもしなかった。
そのズレを埋めるために、
とにかくアプリをさわり、漫画やその他ゲーム、
映画からアニメなどコンテンツを消費しつづけた。
自分の感性の中からでも生めるジャンルをとにかく探した。
そんな試行錯誤を繰り返し、
2010年6月30日にリリースされたのが『ドリームプロデューサー』だった。
幸いにして当時の感覚からするとかなりの大ヒットとなり、
10月にはP3へと昇格させていただき、
社員総会ではベストプロジェクト賞をもらうことができた。
(7月1日付けでP2になっていた)
今でも思うけれど、あのチームは本当に最高のチームだったと思う。
そして今年の2月には同期最速でP4へと昇格させていただき、
3月からはひとつの事業部をまとめることになるなど、
自分でもまったく予想のつかないスピードで物事が動いていった。
これからも、どんなことが待ち受けているのかと思うと、
たまに少し怖くなりながらも、楽しくてたまらない。
自分語りが長くなってしまったけれど、
これから入社してくる11年度の新卒のみんなに伝えておきたい。
社会に出ると、辛いことはたくさんある。
苦しくて、逃げ出したくなることもある。
時には傷ついてしまう人も間近で見たりもする。
けれども、まずは最初に「覚悟」を決めてほしい。
そして「覚悟」に殉じて、まずはやれるところまでやってみてほしい。
逃げた先にあるもの、倒れたままの姿勢から見えるもの、
それよりもきっと、走り続けた先に見えるもののほうがワクワクできる。
どうせなら、ワクワクできるものにむかって走り続けてほしい。
長くなってしまったけど、
最後に、大好きな「ダレル・ロイヤルの手紙」を引用して久々のブログを終わりにしたい。
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親愛なるロングホーン諸君
打ち負かされる事自体は、何も恥じるべき事ではない。
打ち負かされたまま、立ち上がろうとせずにいる事が
恥ずぺき事なのである。
ここに、人生で数多くの敗北を経験しながらも、その
敗北から這い上がる勇気を持ち続けた、偉大な男の歴史
を紹介しよう。
1832年 失業
1832年 州議選に落選
1833年 事業倒産
1834年 州議会議員に当選
1835年 婚約者死亡
1836年 神経衰弱罹病
1838年 州議会議長落選
1845年 下院議員指名投票で敗北
1846年 下院議員当選
1848年 下院議員再選ならず
1849年 国土庁調査官を拒否される
1854年 上院議員落選
1856年 副大統領指名投票で敗北
1858年 上院議員、再度落選
そして1860年、
エイブラハム・リンカーンは米国大統領に選出された。
諸君も三軍でシーズンをむかえ、六軍に落ちる事がある
かもしれない。一軍で始まり四軍となるかもしれない。
しかし、諸君が常に自問自答すべき事は、打ち負かされた
後、自分は何をしようとしているのか、という事である。
不平を言って情けなく思うだけか、それとも闘志を燃やし
再び立ち向かっていくのか、ということである。
今秋、競技場でプレーする諸君の誰もが、必ず一度や二度
の屈辱を味わうだろう。今まで打ち負かされた事がない
選手など、かつて存在したことはない。
ただし、一流の選手はあらゆる努力によって、速やかに
立ち上がろうと努める。
並の選手は立ち上がるのが少しばかり遅い。
そして敗者はいつまでもグラウンドに横たわったままである。
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※追記:
誤解の無いように書いておくと、
営業をしていたときは営業なりの、
受託制作であったときはクライアントの方々がいてこその、
得がたい体験をいくつもしており、それが積み重なって今の自分があるわけで、
これまでの経験で無駄だったものなんて、何一つありません
今半期は本当に怒涛のように過ぎていて、
でも気づくと毎半期いつも同じように怒涛のようで、
結局、これまで怒涛のようでなかった時期なんかないことに気づく。
最近はあまり言われないけれども、
「若者は3年で会社をやめる」とかなんとか、
そんなことを言われていたこともある、社会人としての3年間。
何にもうまくいかなくて、毎日が辛すぎて死にそうな気分だった頃もあり、
今になってみれば、P4という役職にまで上げていただき、
ひとつの事業部を任されていたり。
そんな中で、明日から11年度の新卒が入社してくる。
この機会だから、柄ではないけども、自分のことを振り返りながら
新入社員のみんなに向けてメッセージを書き残しておきたい。
(まるで辞める人間のようだけど、辞めません)
自分の社会人1年目。
武器になるものは何もなかった。
自分がどんなことをできるのかもわからなかった。
会社に入ったのも
「成果を出した人間には自由な挑戦をさせてくれる」
というところだけがほぼ志望動機のすべてで、
入って何を具体的にするか、なんていうことは考えていなかった。
ただ、「将来はメディアを作りたい」という思いだけはあった。
自分がメディアを作り、日本中を元気にするような仕事をしたいと思っていた。
そんな中で志望したのが現在もいるCyberX。
配属先を考えていたときは、まだ設立準備中だった。
業務内容は当時ネット上で有望市場と見られていたモバイル市場での、
サイト受託制作業。
話を聞いてみると、最初は営業から始まるけれども、
いずれキャッシュフローができた段階で自社メディア開発に乗り出す、
というビジョンがあるということだった。
ベンチャー企業の中のさらにベンチャーな部署(子会社)ということで
正直いって、想像できる範囲だけでも大変さが容易に想像できた。
志望するのをためらったのも覚えている。
でも、当時の自分に何もなかった以上、
「どうせなら一番きつい場所で無理やり成長してやる」
という、今思うとなぜそんな悲愴な決意めいたことを考えたのか不明。
また、同時に決心していたのが
「なにがあっても三年間は耐え抜いて、辞めない」
ということでもあった。
ともかく、悩んだ末に志望したCyberXに配属となった。
実はもうひとつ、別に志望していた第一志望があったりしたのだけど、
そのあたりの経緯は割愛。
配属されると、怒涛の新規営業の日々が始まった。
来る日も来る日もアポ電をかけては断られる日々が続き、
受注どころかアポ自体をとるのにも毎日悪戦苦闘。
毎日終電で帰り、2時寝6時起き、7時くらいには出社していた。
成果を出すために必死で動いていたけど、成果は出なかった。
余談ながら、この頃はしばしばN常務とビルの1階で遭遇した。
役員の方だというのに朝7時半には出社しているという現実を肌で感じ、
やはりこの会社は並ではないと思った。
初受注は8月2日だったことを今でも覚えている。
配属から3ヶ月目。
しかし、それからも特に波に乗るということはなく、
また3ヶ月間、受注できない月が続いた。
10月ごろには、本気で会社をやめようと思うことも多くなっていた。
大学院にでも戻ってまた勉強しようかとも考えていた。
ニコニコ動画で松岡修造をみて、自分を奮い立たせていた(実話)。
そんなことがあり、年が明けて1月になると、
月末には無理がたたったのかインフルエンザになった。
このとき、「精神力で抑えられないくらい身体にガタがきたか」と本気で思った。
精神力でずっと耐えていたけれども、身体にとうとう影響がでた。
そう思ったとき、それまでよりもずっと本気で仕事を辞めようと考えていた。
それでもやめなかったのには色々と理由があるが、
「なにがあっても三年間は耐え抜いて、辞めない」
という決意をゆるがせることで、
自分を裏切ることが怖かったのかと、今にして思う。
そんななかで色々とあったけれども、
さまざまなサポートや、引き継いだ案件などがあり、
2月になると初めて自力での受注目標を達成できた。
3月にはCyberXがCAJJ賞を受賞。
このときは本気で、死んでもいいと思うくらい嬉しかった。
4月から2年目になると、
職種はプロジェクトマネジャーになった。
サイト制作のスケジュール管理や細かいところの作業をこなしていくうえで、
モバイルサイトやWEB周辺技術について学ぶことが多かった。
しかし会社としては数字があがらず、
自分としても貢献したとは言いがたい状況が続き、
明らかなジリ貧状態になっていた。
そんなおり、2009年11月をもって会社が業態変更となることが決定。
12月からはソーシャルアプリ事業を手がけるということになった。
今だからこそ言えるけれども、
このときは正直いって、
「自分の時代がきた」
と思っていた。
・・・というと語弊がありすぎるけれども、
配属希望を出す前に考えていた
「いつかはメディア事業を」
ということが、降って湧いたように現実になった。
それが、自分にとって僥倖でないはずがないと思った。
とはいえ、もちろん自分はソーシャルアプリなどやったこともないし、
それどころかまず触ったことすらほとんどなかった。
自分の感覚は一般よりもずっとニッチ寄りだとも思っていたし、
成功する自信があったわけではなかった。
業態変更してから企画を考える日々が続いたものの、
案の定、ロクな企画が出せなかった。
「一般に受ける企画」という部分において、
自分のセンスは(予想通り)とてもズレがあった。
1ヶ月ほどの間は、企画がかすりもしなかった。
そのズレを埋めるために、
とにかくアプリをさわり、漫画やその他ゲーム、
映画からアニメなどコンテンツを消費しつづけた。
自分の感性の中からでも生めるジャンルをとにかく探した。
そんな試行錯誤を繰り返し、
2010年6月30日にリリースされたのが『ドリームプロデューサー』だった。
幸いにして当時の感覚からするとかなりの大ヒットとなり、
10月にはP3へと昇格させていただき、
社員総会ではベストプロジェクト賞をもらうことができた。
(7月1日付けでP2になっていた)
今でも思うけれど、あのチームは本当に最高のチームだったと思う。
そして今年の2月には同期最速でP4へと昇格させていただき、
3月からはひとつの事業部をまとめることになるなど、
自分でもまったく予想のつかないスピードで物事が動いていった。
これからも、どんなことが待ち受けているのかと思うと、
たまに少し怖くなりながらも、楽しくてたまらない。
自分語りが長くなってしまったけれど、
これから入社してくる11年度の新卒のみんなに伝えておきたい。
社会に出ると、辛いことはたくさんある。
苦しくて、逃げ出したくなることもある。
時には傷ついてしまう人も間近で見たりもする。
けれども、まずは最初に「覚悟」を決めてほしい。
そして「覚悟」に殉じて、まずはやれるところまでやってみてほしい。
逃げた先にあるもの、倒れたままの姿勢から見えるもの、
それよりもきっと、走り続けた先に見えるもののほうがワクワクできる。
どうせなら、ワクワクできるものにむかって走り続けてほしい。
長くなってしまったけど、
最後に、大好きな「ダレル・ロイヤルの手紙」を引用して久々のブログを終わりにしたい。
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親愛なるロングホーン諸君
打ち負かされる事自体は、何も恥じるべき事ではない。
打ち負かされたまま、立ち上がろうとせずにいる事が
恥ずぺき事なのである。
ここに、人生で数多くの敗北を経験しながらも、その
敗北から這い上がる勇気を持ち続けた、偉大な男の歴史
を紹介しよう。
1832年 失業
1832年 州議選に落選
1833年 事業倒産
1834年 州議会議員に当選
1835年 婚約者死亡
1836年 神経衰弱罹病
1838年 州議会議長落選
1845年 下院議員指名投票で敗北
1846年 下院議員当選
1848年 下院議員再選ならず
1849年 国土庁調査官を拒否される
1854年 上院議員落選
1856年 副大統領指名投票で敗北
1858年 上院議員、再度落選
そして1860年、
エイブラハム・リンカーンは米国大統領に選出された。
諸君も三軍でシーズンをむかえ、六軍に落ちる事がある
かもしれない。一軍で始まり四軍となるかもしれない。
しかし、諸君が常に自問自答すべき事は、打ち負かされた
後、自分は何をしようとしているのか、という事である。
不平を言って情けなく思うだけか、それとも闘志を燃やし
再び立ち向かっていくのか、ということである。
今秋、競技場でプレーする諸君の誰もが、必ず一度や二度
の屈辱を味わうだろう。今まで打ち負かされた事がない
選手など、かつて存在したことはない。
ただし、一流の選手はあらゆる努力によって、速やかに
立ち上がろうと努める。
並の選手は立ち上がるのが少しばかり遅い。
そして敗者はいつまでもグラウンドに横たわったままである。
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※追記:
誤解の無いように書いておくと、
営業をしていたときは営業なりの、
受託制作であったときはクライアントの方々がいてこその、
得がたい体験をいくつもしており、それが積み重なって今の自分があるわけで、
これまでの経験で無駄だったものなんて、何一つありません