朝代神社から数百メートルえー

本行寺へ照れ


本行寺  【ほんぎょうじ】

妙光山本行寺は京都府舞鶴市引土新に境内を構えている法華宗の寺院です。


本行寺の創建は弘治2年(1556)、安久兵左衛門が開基となり日雄上人(本隆寺第6世)によって開かれたのが始まりと伝えられています。

当初は安久にありましたが慶長6年(1601)、新たに田辺藩主となった京極高知が現在地に移し自らの菩提寺としました。


境内には室町時代に大木の又に奉納された地蔵尊が小堂に移して祀られていて「木の又地蔵尊」として子育て、無病息災、交通安全に御利益があるとして信仰の対象になっています。



寺号標
戦国時代の創建プンプン

田辺城主えー

京極高知の菩提寺という、由緒正しい古刹なんやってびっくり



山門
秋の紅葉では綺麗なんですよ照れ


手水キョロキョロ
いや…
これはバケツに水を入れるやつえー


本堂
本尊
大曼荼羅
題目の周囲に漢字・梵字で記された仏・菩薩、仏弟子、天台系の学僧たち、インド・中国・日本の神々の名号などを配置した、日蓮宗(法華宗)系の諸宗派で使用される本尊。「大曼荼羅御本尊」ともえー


 法華経の世界を図や名号などで表す法華曼荼羅の一種ニヤリ



弓道してるキョロキョロ
きっと…
的屋だなニヤリ


鐘楼ないんですが…
ちっこい鐘があった爆笑


大黒殿
京極高知奉納の福天大黒を祀ってます照れ

大黒天は、福を授ける7人の神様からなる七福神の1人として親しまれています照れ


頭巾を被り、左肩には大きな袋、右手には昔話で有名な打ち出の小槌を持ち、俵の上に立つように表されることが多いんよニヤリ


また、垂れ下がった耳たぶに、満面の笑みを浮かべた顔も特徴的えー


福の神はさまざまなご利益を与えてくれるとされていますが、大黒天は特に五穀豊穣の神として祀られています照れ


他にも、大黒天は台所の神様でもあるためネズミと縁が深く、「子日(ねのひ)」が縁日(ご利益を多めにいただける日)に当たりますえー

大黒天のルーツは日本ではなく、インドの神話にありますニヤリ


大黒天はインドではサンスクリット語で「Mahākāla(マハーカーラ)」と呼ばれており、これはインド神話で破壊と再生を司る「シヴァ神」が、破壊神となったときの異名プンプン


日本では「mahā=大きい」と「kāla=黒い」を訳して“大黒天”と名付けられたとかびっくり

また、サンスクリット語の響きから「摩訶迦羅(まかから)」と呼ばれることもえー


大黒天のルーツであるマハーカーラの特徴は、3つの顔に6本の腕を持つことプンプン


体は青黒色か黒色で表されることが多いんよえー

曼荼羅や彫刻などでは様々なファイティングポーズをとっていますが、一例を挙げると次の通りえー

右手の第一手に剣を持ち、左手の第一手は切先に添えていますニヤリ

さらに右手第二手で人間を、左手第二手で羊を掴み、左右の第三手で象の皮を掲げていますえー


いつも笑顔でぽっちゃり体型の日本の大黒天とは真逆の恐ろしげな姿をしていますガーン

大黒天は、インドから中国を経由して日本に伝わってきましたえー


特に中国では「かまどの神」と崇められていたため、日本でも大黒天は台所のかまどを司る神様として崇められるようになっていきますえー


日本に渡ってきた大黒天はその後、平安時代頃に「大国主命(おおくにぬしのみこと)」と習合します照れ

大国主命とは国作り神話で知られる出雲の神様ですが、「大黒」と「大国」が同じ「ダイコク」という響きで通ずるため、次第に一体視されるようになったと言われていますウインク


また、大国主命は袋を担いだ姿で表されることが多かったため、日本での大黒天はインドのマハーカーラのような荒々しい形相ではなく、大国主命に寄せた袋を担ぐ姿で表されるようになっていきました照れ

笑顔や持ち物の他にも、現代の日本で描かれる大黒天にはふくよかなイメージがありますニヤリ


しかし、日本に伝わったばかりの大黒天は、ほっそりとした姿に描かれることが多い神様とかびっくり


それは、平安時代後期に作られたと見られている、大宰府の観世音寺所蔵の木造大黒天立像が、スリムな姿で厳しい表情を浮かべていることから分かりますえー


そこから大黒天が現在のような短身で福々しい姿になったのは、室町時代の頃に「大黒天=福の神」というイメージが定着し始めたのがきっかけだと言われています照れ

大黒天を崇めると、五穀豊穣や商売繁盛など、主にお金にまつわるご利益があるとされていますえー


なぜならば、大黒天が左肩に背負う袋は財宝、右手に持つ打ち出の小槌は湧き出る富、足で押さえた米俵は豊作を意味しているからですニヤリ



木の又地蔵尊
室町時代から樹齢数百年とも言われる大木が植えられ、その又に地蔵尊が祀られていました照れ


明治時代にその大木が枯れ、地蔵尊と枯れた木の又が小堂に安置されていますえー

木の又地蔵尊には子供の無病息災・交通安全にご利益があり、良い子に育つとも言われています照れ



久遠廟の石碑
納骨堂爆笑



日蓮聖人(立正安国)の銅像
立正安国とは、日蓮が説いた「正しい仏法を打ち立てて、国と民の安穏を実現する」という思想・スローガンを指しますえー


特に著作『立正安国論』の題名として知られます照れ



南無阿弥陀仏が掘られてますニコニコ


サルスベリ
“樹皮が剥がれ落ちて樹肌がツルツルになり、サルも滑り落ちてしまう“という事から、サルスベリ(猿滑り)と名付けられたと言われていますえー


また、別名の「百日紅(ヒャクジツコウ)」は、花が咲く時期が7月~9月で、およそ100日間、紅紫色の花を咲かせることにちなんでいます照れ



京都府舞鶴市引土新12



この手の像がだんだん減ってきてるんですよねキョロキョロ
時代の流れですかねショボーン


重要文化財の門の先は…
学校とかびっくり


田辺城跡
戦国時代に丹後を治めた細川藤孝は、主君の織田信長が討たれた本能寺の変後に剃髪し、後に隠居をして忠興に家督を譲ると「幽斎」と名乗り、宮津より東で都に近い田辺の地に田辺城を築城しました。田辺城は舞鶴城(ぶかくじょう)とも呼ばれ、のちの舞鶴(まいづる)の地名の由来ともなりましたえー

当時の周辺は湿地帯でしたが、川の付け替えを行って土地を整えて築城し、防御が堅い実戦向きの平城でしたプンプン


天守台のある本丸や、二の丸、三の丸などが造られ、周囲を堀が囲み、周辺部には城下町も整備えー


西舞鶴の基礎は幽斎によって築かれていますニヤリ

また、文化人であった幽斎は、田辺で観能を行い、幽斎を訪ねて文化人も訪れました照れ



慶長7(1600)年7月、三成を中心とする西軍が挙兵えー


細川幽斎が守っていた田辺城にも、西軍方の福知山城主・小野木重勝らが軍を率いて攻め寄せましたえー

 

幽斎は、残っていた丹後の兵をすべて田辺城に集結させますが、女性や子どもを合わせても500ほどの兵にしかならず、対する西軍方は1万5千という圧倒的な兵力差がありましたびっくり


幽斎は城の守りの堅さを生かした籠城作戦をとり、西軍は城を取り囲みますプンプン


西軍方に対しては、田辺城の櫓から火縄銃による銃撃や大筒を打ち込むなど、鉄砲を活用して城門を守り、やがて戦は膠着状態となりましたえー

幽斎が田辺城で戦闘に入ったとの情報は宮中にも届けられ、動揺が走りますガーン


幽斎は古今伝授(こきんでんじゅ)を受けた当時唯一の存命者であり、後陽成天皇の弟である八条宮智仁(としひと)親王を後継者として、伝授を行っている最中でもありましたえー


もし幽斎が死ぬことがあれば、その伝授は途絶えてしまうと危惧されたのですプンプン

智仁親王は使いを田辺城へと送り、幽斎に降伏を勧めましたが、幽斎は戦闘の意思を示し、窮余の策として7月29日付で伝授の資料と証明状を入れた箱を八条宮智仁親王に宛て、「古も 今もかはらぬ 世の中に 心の種を 残す言の葉」との和歌が添えられましたえー

 

その後も朝廷は和睦の斡旋に動き続け、9月初めに後陽成天皇からの勅使が田辺城を訪れると、ついに幽斎は降伏を受け入れ、9月18日に田辺城は開城プンプン


50日を超える奮戦で、結果的に田辺城の西軍方は関ヶ原の戦いには間に合わず、東軍の勝利に貢献しましたえー

田辺城は明治維新後に破却され、現在の舞鶴公園内に天守台跡の石垣が残されているほか、大手門や二重櫓が復興され、内部には展示スペースが設けられて、細川幽斎や田辺城について学ぶことができます照れ



心種園側から眺める本丸東側の石垣えー


手前は池になっていますが、往時は内堀でしたえー



城の形した滑り台びっくり


舞鶴市のJR西舞鶴駅の側の雑居ビルの2Fにある駅カフェさん照れ
 

昔ながらの喫茶店、といった雰囲気やぁびっくり



MENU照れ


カレー650円
海自カレーは、同店が提供するカレーメニューの1種プンプン


舞鶴地方隊に属する海上自衛隊艦船や施設で食べられるカレーを提供えー

具材はトロトロに溶けているタイプで辛さは普通ってかんじかなキョロキョロ
コクがあって美味しかったです照れ

西舞鶴駅から126m
京都府舞鶴市字引土17 2F