治水神社から行基寺へ移動えー
なかなかの距離やったなぁキョロキョロ

行基寺   【ぎょうきじ】

当山の開基は、今から約1300年前(奈良時代)に、行基菩薩が聖武天皇の勅願をもって、伊勢、尾張、美濃の三国の守護霊場地として七堂伽藍が創建されたことによります。


南北朝時代の戦火により焼失するまでの600年間は、濃尾の人々から『西山の極楽』と讃えられ、各宗の祖師や高僧をはじめ、数多くの人々が御利益と功徳を求め、参詣や参籠のために足を運ぶ信仰霊場であったと伝えられています。



楼門
文政3年(1820)の建立プンプン

行基寺の源流は、奈良時代の僧行基(ぎょうき)(668-749)創建という伝説を持つ臥龍山菩提寺プンプン


1705年その場所に当時の領主だった松平義行が、松平家の菩提寺として再建し、臥龍山行基寺と命名えー


三河の松平&徳川家菩提寺の大樹寺(だいじゅじ)、江戸の徳川将軍家菩提寺の増上寺(ぞうじょうじ)と同じく、宗派は浄土宗ニヤリ

開基とされる行基は、日本全国にお寺を建てまくった人(伝承も多数)えー


また日本最古の溜池プロジェクト・狭山池(大阪狭山市)や、東大寺大仏造営の勧進(スポンサー探し)のキーパーソンとして知られていますえー

そんな歴史を踏まえた上で(たぶん)お寺を再興したのが高須松平家ですニヤリ

高須松平家とはえー
家祖は松平義行(よしゆき)(1656-1715)


父は尾張2代藩主徳川光友みつとも(徳川家康の孫:1625-1700)、母は3代将軍徳川家光の娘千代姫(家康の曾孫:1637-1699)


将軍家との血縁の近さもあり、家光から3万石を与えられ別家を設立プンプン


後に美濃高須を本拠地としたので高須松平家と呼ばれるようになりますニヤリ


その家格の高さもあって江戸常府(参勤交代の義務なし)とされ、江戸藩邸は四谷にあったことから四谷松平家ともえー


ちなみに兄は尾張3代藩主徳川綱誠(つななり)(1652-1699)


光友は義行以外の息子2人も別家とし、尾張藩の御三家を創設しています(高須家以外はのちに絶家)照れ



手水舎
一枚岩の鉢が素敵ですね照れ


本堂
在の本堂は天保3年(1832年)再建プンプン

御本尊
阿弥陀如来

現在の境内は、今から約300年前(江戸時代)に松平義行公(徳川家康公のひ孫で、徳川家光公の外孫にあたる)が、美濃高須藩の藩主として封ぜられるにあたり、松平家の菩提寺として全伽藍を城郭に見立てて改築されたものですえー


美濃高須藩松平家は石高三万石の小藩でしたが、御三家を除けば将軍家筆頭家門の家柄で、江戸城における格式も大大名と同格でありましたニヤリ


これには理由があり、将軍家に跡継ぎが無い場合は、尾張家か紀州家が入ることになっていましたが、そこに適当な人が無い場合には高須松平家から尾張家に入り、そこから将軍家へ入るという将軍家の「おひかえ」の家柄であったからですプンプン

美濃高須松平家は尾張藩主に後継者が絶えた場合に相続人を出す家柄であることから、尾張藩第8代宗勝(むねかつ)、第9代宗睦(むねむつ)、第14代慶勝(よしかつ)、第15代茂徳(もちなが)は美濃高須藩松平家出身の藩主えー


徳川一門の信仰霊場となった後、明治維新に至る160年間は一般庶民の登山参詣は禁止されていましたプンプン



心キョロキョロ
水をたたえた水盤にある「洗心」という文字は、「身を清めることで心も洗う」という手水の精神(こころ)を現していますえー



3m程高くなってるキョロキョロ
ほぼ全面「石垣」が組まれていて…えー
上には、複数の建物が見えるびっくり
以前は公開されていたようだが、現在非公開となっており、残念ながら立ち入ることはできなかったえーん



マニ車
内部に経文を納めた筒を右回りに回転させることで、経を唱えたのと同じ功徳が得られるとされるチベット仏教の法具なんよニヤリ



観音様…照れ


刻紋石
慶長18年約400年前、名古屋城築のおり
当山(臥龍山)一帯より採石された河戸石の一つとかびっくり


当時この地域には蜂須賀阿波守、細川越中守、鍋嶋信濃守ら三人の西国大名が出向き、多くの石材( 河戸石)を採石していたんやってえー


この刻紋石は蜂須賀阿波守(小六の子)が切り出したものなれど当時輸送中に落としたか、あるいは何らかの理由により放棄されたものと思われてるんやってびっくり


 (右記を裏付ける古文書は当山に保存されている。) 近年当地南濃町上野河戸の元船着場近くの桑原家屋敷を整備中、土中約四尺程下に埋もれていたものをみつけられ、これを放置する事なく広く見聞して 頂く為にと、ここに是の如く築かれ奉献されたものとかえー



七重の石塔
高さ約4メートルの七重の石塔で、建武・元弘(1330年代)の兵乱に焼け残ったといわれ、当時は本堂裏山の上にありましたが、山崩れの危険をさけるため、天明元年(1781)現在地(行基寺境内)に移されましたえー



地蔵群
高州藩主の歴代の墓所ともなっております照れ


美濃高須藩松平家は石高三万石の小藩でしたが、尾張藩二代目藩主徳川光友の次男(実は三男)松平義行が、初代藩主でこの義行の祖父が徳川家光と尾張徳川義直なので、家康の曾孫でもあり徳川御三家に次ぐ家格を有していたようえー

また幕末の頃には松平義建の息子が高須四兄弟として尾張藩主徳川慶勝(よしかつ)、徳川慶喜の後に一橋家を相続した徳川茂徳(もちなが)、会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平定敬(さだあき)がそれぞれの立場で敵味方に分かれたりしてるんよえー


この高須四兄弟の写真は岐阜県海津市歴史民族資料館で拝見できるみたいです照れ

現在の徳川宗家当主の徳川家広さんも、
義建の男系子孫に当たるそうですよニコニコ



真影堂
観世音菩薩が祀られています照れ



こんな顔したおばあさん…見たことあるびっくり


こんな顔したおじいさん…見たことある爆笑


山門から眺めた本堂照れ



御山の燈台
当山臥龍山記によると、天平の昔(1250年前)このお山臥龍山に大寺院が建立され、この地に仏舎利塔と、一丈余尺(3m余)の石積みによる高燈籠が築かれたえー


この高燈籠は、常夜燈として遠方の人々から菩提山(臥龍山)の燈台、法燈様として崇められていたんよニヤリ


戦乱時には、狼煙台として使用された事もあるが、鎌倉末期南北朝の頃、兵火により寺院と共に崩れ焼失ガーン


その後、江戸中期宝永の初め、当地高須藩主松平家初代 義行公が行基寺再建の際に再び築かれ、揖斐・長良・木曽 の三大川を行き交う船の標識と夜間の目印を示す御山の燈台(燈標)としての役割も果たしたとかびっくり


時を経て平成の今、先人の残した多くの文化遺産が消え行くことを惜しみ、当時の資料・伝承に基づき、伊藤源一郎氏が再び復元されたものなんよ照れ



尾張平野を見渡すプンプン
揖斐川が見えますキョロキョロ

田舎の景色ですが、肥沃な穀倉地帯やね照れ


海津市は現在岐阜県ですが、幕政時代は高須藩、高須城が置かれたところなんやってプンプン



岐阜県海津市南濃町上野河戸1024-1



海津にある和風レストラン海津さんでランチを照れ


揖斐川と長良川に挟まったいわゆる輪中地域に広がる海津市の中ほどに立地えー


豊かな川魚の資源に恵まれてきたこの地には、多くの川魚専門店が存在するが、こちらもその中の一つなんよ照れ



月替わりランチ  1300円
ミニひつまぶし、お刺身、酢の物。吸い物、漬物照れ

鰻はしっかりと焼き上げられており、弾力もある地焼の特徴がよく出ている逸品爆笑


当然ながら香ばしくまろやかな風味のたれとも実によく調和しておりご飯が進みます
タレだけでお茶碗1杯は食べるなニヤリ

お刺身はまぐろ、いか、甘エビ照れ
まぐろ、スジ感が少なく、舌でとろける口どけでめちゃ美味しい照れ
いかは柔らかくてプルンプルンラブ
甘エビは味噌の臭みなしで美味しかった照れ

酢の物はもずく酢、暑い時の酸っぱいんは体が喜びますねニヤリ

うなぎを使ってお刺身もついて1300円
めちゃリーズナブルで美味しかったです照れ

今度はがっつりひつまぶしが食べたいですなぁ爆笑

駒野駅から2,853m
岐阜県海津市海津町馬目418