
西蓮寺の被爆遺産と広島大仏
旧 産業奨励館 ── 原爆ドームの道路を挟んで隣に建つ、浄土宗の寺院 華䑓山 西蓮寺も、被爆の惨劇を未来へ伝える被爆施設です。
かつては広島大仏と呼ばれる仏像が安置され、厳島神社と双璧をなす広島の観光名所でもありました。
創立は1605(慶長10)年に心誉崇源上人により開山されましたが、元々は広島藩の御米蔵の隣に建立されていました。
広島藩は、芸備二州(広島県と岡山県の一部)を領有した大藩であり、経済力も強く幕府への影響力も大きかった雄藩でした。
明治維新の後、山陽鉄道が広島まで開業していたことから、日清戦争の際に大本営が広島城内へ建てられ、天皇陛下ご臨席と共に首都機能が移されます。
それに伴い広島は再び急速に発展し、産業の振興と物品の販売経路拡充が急務となり、御米蔵跡地へ1915(大正4)年4月5日に竣工、8月15日に開館したのが広島県物産陳列館でした。
広島県物産陳列館は戦時下から広島県産業奨励館と名称変更され、1945(昭和20)年に核攻撃を受けて、都市消失と共に廃墟ビルと化します。
爆心点は島外科で、西側約200mに位置する産業奨励館は、上空580mでさく裂した核の火球が半径260mであることを考えると、以前記事化した広島ガス旧本社屋と同様、爆心地であったと言えます。



西蓮寺は産業奨励館と島病院を結ぶ直線上にあり、隣接する寺院であったことから壊滅的な被害を受け、その様子の写真が境内に掲げられています。
被爆直後はまだ戦時下でしたが、8月14日に連合国へ降伏を伝え休戦状態になると、他都道府県と同様に広島も復興が本格化します。
9月2日に正式な終戦を迎え、1952(昭和28)年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、連合軍が撤退を始めると広島の復興都市計画も加速します。
1956(昭和31)年、都市計画法に基づいて大がかりな区画整理が実施され、原爆ドームと隣接する西蓮寺は平和記念公園の一画となることから、現在の場所に移転しました。
広島大仏は1950(昭和25)年8月4日に遷座祭が執り行われ、8月6日には原爆被害者の慰霊祭が催されましたが。
1955(昭和30)年8月11日正午頃、西蓮寺境内へトラックが侵入し、10人以上の作業員が大仏を頭、胴、腰の三つに分解し、住職の抵抗も虚しくトラックに積み込まれ、強奪される事件が発生しています。
都市整備における西蓮寺の移転前に強行された事件ですが、大仏殿が建てられ管理が行き届く前に、大仏の拉致を強行したもののようです。
移転した西蓮寺は長らく仮の本堂で(それでも大きく立派でしたが)営まれていましたが、1986(昭和61)年に鉄筋コンクリート3階建てで、現在の本堂・庫裏が再建されました。



本堂3階には音楽法要のため、パイプ数478本を有するパイプオルガンが設置されています。
そして、境内には3つの被爆遺物があります。
まずは爆心直下の御影石が、その火球の表面温度7,700℃の熱に焼かれ、液化から気化そして0.5秒後には再び結晶化して、核攻撃独特の化学変化を起こしました。
現在も境内墓地に残る墓石や供養塔には、普通の風化とは異なる表面をした、被爆遺物としての墓標が建っています。
また境内墓地入口には被爆直後の原爆ドームの写真と、当時と今のイラスト地図が貼られていますが、一緒に僧侶 法然の「許して忘れよ」が掲示されています。
その文面を以下に転載します。
「宗祖 法然(ほうねん)上人の幼名を勢至丸(せいしまる)といった。
九歳の春 (1141年)勢至丸の父、漆間時国(うるしまときくに)は夜討ちにより非業の死を遂げた。



時国はいまわのきわに、勢至丸に「恨みを抱き仇討ちをすれば、必ず相手方から仕返しをうける。
又それに対してこちらが復讐するということになれば、いつになっても争いが尽きることはない。
お前は仇討ちをやめてほしい。
そしてこの世の中の争いをなくし、人々が平和な日々をおくることができるよう出家して、私の菩提をとむらってほしい」と語り、息たえた。
この父の遺言が忘れ難く勢至丸は幼くして出家し、後に法然房源空として浄土門の信仰を説き浄土宗を開宗した。」
2つめは善意の鐘と呼ばれる梵鐘ですが、原爆の爆発で宙を舞い、着地後に瓦礫が降り注いで積層して行き、山積した瓦礫に埋もれて紛失しました。
ここからは説明板の「米国から里帰りした″善意の鐘」″ The "Bell of Good Will" returned from the U.S.A.」からの転載です。
「この喚鐘は、終戦直後廃墟の中から発見され、G.L.ニーリー氏(当時、東海堂士官)により「被爆の鐘」としてアメリカ合衆国で大切に保管されていましたが、、 故 鈴木大拙師の鑑定により、西蓮寺の鐘と判明し、1969年2月、24年振りに返還されたものです。」
そしてもう1つは 被爆地蔵 です。
「原爆の熱線がほぼ真上から来たために、側面と地蔵尊の影となった部分は滑らかであるが、他の部分は表面がザラザラになっている。」


そう説明板に記されていますが、頭や顔上部とあご下などの部分は、被爆による石質の化学変化が、顕著に見ることができる被爆遺産となっています。
広島を訪れた際には、原爆ドームと合わせて是非、足を運んでみて欲しい寺院です。
尚、広島大仏ですが••••••••,奈良県生駒郡安堵町の極楽寺にて、ご住職は彼の祖父が知り合いだった古物商から譲り受けて2004(平成16)年頃から寺に安置していた大仏が。
2011(平成23)年になって、書籍 ヒロシマの記録 に掲載されている広島大仏の写真と、非常によく似ていることに気づきました。
奈良国立博物館の専門家による調査で、顔の特徴などから同一の仏像であると判明し、それ以来、8月6日には極楽寺において原爆犠牲者供養の法要を催していたそうです。
2015(平成27)年に、広島への里帰り「出開帳」のプロジェクトが始動し、2020(令和2年)10月に里帰りを実施予定だったものの、新型コロナウイルスの流行により中止となってしまいました。
2022(令和4)年4月にマツダなど広島の企業を中心としたグループが、同年7月に里帰りするプロジェクトを立ち上げ、クラウドファンディングで輸送費などの費用を賄うよう、大仏の制作年にちなみ1201万円を目標として設定。
結果 1250万円の資金が集まり、2022(令和4年)7月1日から9月1日まで西蓮寺近隣の おりづるタワーで公開されました。













