
元安川お散歩 -③ / 平和大橋より南下します
旧 中島町本通り西詰に架かる元安橋から、南へ向けて万代橋まで歩きます。
前回までは、インドのイギリスからの独立運動を指揮した、マハトマ・ガンディーの像までUPしました。
第3回の今回は、ガンディー像からもう少し歩いた位置にある、広島県農業会原爆物故者慰霊碑からスタートです。
あ、ちなみにガンディー像の横顔の、元安川対岸にある建物が、地下建築物なので目立ちませんけど、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館です。
そうそう、2月24日の「なごり雪がドカ雪だった日」から、春らしく暖かな陽射しが心地よい季節へと移りましたけれど。


その後の寒の戻りでチラチラふわふわな雪が、2回ほど降ってしまって、3月だと言うのに凍える毎日でした。
が、春分の日の前辺りから、気温は上昇してやっと、安心した毎日を過ごせるようにはなったものの、プライベートでは日々大混乱な時を今、過ごしていたりします。
と言うことで本題へ入ります ── この慰霊碑ですが、かつて農業会広島支所があった場所に1971(昭和46)年8月6日に建立されました。
支所にいた40名、国泰寺本所へいた14名と、後日亡くなった方々の合計83名の氏名が、刻まれています。
「昭和20年8月6日午前8時15分
広島市上空に炸裂した一発の原子爆弾により全市は一瞬にして阿鼻叫喚の巷と化す猛火市井を襲って廃墟となり広島県農業会役職員80余名尊き犠牲となる。
ここに広島支所の在りしゆかりの地に近く碑を建立して犠牲者の霊を祀る.」
ここに広島支所の在りしゆかりの地に近く碑を建立して犠牲者の霊を祀る.」
背面には碑文がこのように彫られています。



そして広島県農業会原爆物故者慰霊碑のすぐ近くには、毛髪碑という石碑が建っています。
髪に火が着いて失った人や、放射線障害で毛髪を失った人への、慰霊碑なのかと思いきや、全く無関係な記念碑だったりします。
この碑は、広島理容師会が建立したもので、「黒髪も いのちのあらむ 朝に日に 刈りしを集め ここにまつらむ」と短歌の一首が刻まれています。
理容技術の向上発展と感謝の意が込められている石碑であって、他の隣接する「原爆犠牲者の冥福を祈る」「真の世界平和の実現を祈念する」と言ったものではありません。
これは、かつては平和公園内や元安橋周辺にのみあった慰霊碑が、毛髪碑より後から広範囲に増えたために、紛らわしくなったものなのでしょう。



しかし戦地へ召集されたり、空爆や原爆で大勢の人が亡くなり、髪切り技術も失われた技術となりかけたのも事実で。
たゆまぬ努力によって再び理容技術の向上発展が迎えられ、ファッションの一石を支えられるまでになったと言うことは、やはりそこにはこの場所で相応しいとも考えることもできます。
そして平和大通りを横断して少し歩くと「被爆動員学徒慰霊慈母観音像」があり、台座下の築山には原爆で犠牲になった動員学徒約4千人の名が刻まれた、銅板が納められています。
広島市内の建物疎開作業に動員されて犠牲になったのは約6,300人とされていますが、銅板にはこのうち旧制中学校・女学校の計19校約4千人の生徒の名が、学校ごとに刻まれています。
8月6日の慰霊祭では、この縦30cm 横50cmの銅板の名簿41枚を公開しています。


そして今日ラストは「日本発送電株式会社 中国支店 原爆殉職者慰霊碑」です。
日本発送電 中国支社とは中国電力の前身の会社で、中国電力本社裏手の元安川護岸遊歩道に建立されています。
ここら辺りは爆心地から約700mの位置になりますが、旧社屋は約900mの距離があったそうで、被爆によって木造2階建ての社屋は崩壊し焼失しました。
当日、支店で勤務していた117人のうち1年以内に115名が亡くなり、社外で被爆した方を含めて、169名が犠牲となりました。
ところでお散歩のコース上にありながら、途中でやむを得ずスルーしている慰霊碑があるのですが、それはまた別にUPします。
-安芸もみじ⛩️広島-

-2025(昭和100)年記念 記事一覧-













