戦艦大和就役記念日 2025
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大和誕生と歴史の流れ
1941(昭和16)年12月16日、世界最大そして史上最後の戦艦が就役しました。
大日本帝国海軍の戦艦大和です。
2025(令和7)年は、昭和100年、終戦80年、被爆80年と、私の平和活動25周年でした。
今年は例年と比べてこういった関係の記事が多かったことは、然るべき成り行きでしたが、この戦艦大和就役記念日が、メモリアルイヤーのラスト記事となります。
大和に関してはこれまでで、歴史関連記事では1番多く記しているため、今日の記事は少し趣向を変えます。
が、そこは戦後80周年の記事でもあるので、あまりカジュアルへ舵は切れませんけれど。
といった感じで先へ進みます。
1940(昭和15)年の8月8日、戦艦大和は竣工して進水式が行われました。
全長263m、満載排水量7万2,800tの世界最大な艦船は、最大速力は27Kt(約50km/h)。
主砲は46cm砲3基9門と副砲4基12門を備え、戦闘力も最強クラスを誇っていました。
主砲は敵の攻撃が届かない距離から、相手を撃破するアウトレイジ用のシステムを新規開発し、副砲は最上型軽巡洋艦の主砲として開発された15.5cm砲を搭載していました。
これは当時としての日本の防衛システムとして設計された所以で、また最上型主砲は高い射撃精度が信頼が厚く、片舷に9門指向可能という強力な火力の防衛力を持っていました。
ところで映画「アルキメデスの大戦」は、史実をベースにしているものの、物語自体は完全なフィクション作品でした。
当時の仮想敵国はアメリカ合衆国でしたが、今の価値観から見ればどちらかと言うと、追いつき追い越すための目標だったといえます。
アメリカと互角に戦える海軍力を持つことは、より強固な国防を維持することができるため、アメリカを敵国とみなして切磋琢磨していた日本でした。
実際に戦艦大和の設計では、外洋へ進出して海戦を行うことを前提としておらず、日本近海•••••••,今で言う排他的経済水域の警邏に主軸が置かれていました。
とは言え、日本内地に対して外地は大きく広がっており、それらをカバー為うる能力は必要とした設計となっていました。
当時の日本の実効支配圏域は、北は樺太南部と千島列島、西は衛星国の満州国と租借地のため日本海全域、南も台湾沖で東は日米共に掌握できていませんでした。
が、日本時間1941(昭和16)年12月8日未明、ハワイ島の真珠湾へ終結していたアメリカ艦隊を日本は襲撃し、日米戦争 = 太平洋戦争が勃発すると。
実効支配の制海権は更に拡大してハワイ ホノルルから2,000km手前のミッドウェー島、ソロモン諸島イサタブ = ガダルカナル島、パプアニューギニア、東ティモール、ジャカルタ、マレーシアとなっていて。
ミャンマーとバングラデシュ国境線辺りまでが日本の領海となっていました。
当時、ハワイは独立国でまだアメリカによって併合されていませんでしたが、上に記した国々は欧米諸国の植民地であって、国は存在していませんでした。
太平洋戦争の開戦からミッドウェー海戦敗北までの期間、日本は資源採掘のために現地へ街を整備し、現地人を雇用して生活の安定に寄与したため。
日本の敗戦によって迎えた戦後は、日本統治下の経験がベースとなり、それぞれが独立国へと成していきました。
中国大陸の租借地は敗戦によって返還は仕方ないとしても、清国時代に中華を支配していた女真族(満洲人)の領土は、漢民族によって逆支配され、領土と主権は奪われて満州国は独立を失いました。
ミッドウェー島は海戦を日本が制したら、 正式に日本領となる予定で、日本名は水無月島と決まっていましたが、日本の敗戦によって現在はアメリカの管理地となっています。
管理地なので領土ではありませんが、自然保護管理の事務所があり、かつての日米の基地は撤去され、自然へと復元されています。
戦艦大和は宝の持ち腐れ?
戦後、戦艦大和は日本海軍の象徴であって、撃沈されると心の支えを失うから、戦闘へ参加させなかった••••••,と言われていますが。
現実を考えて、果たしてそうなのでしょうか。
実際に大和は僚友艦の武蔵と共に、大和ホテル・武蔵旅館と呼ばるほどに、戦時下において停泊が多い艦でした。
しかし泊地のトラック島(ミクロネシア チューク諸島)の位置を考えると、前述した広範囲な外地領海の防衛的には、最適な場所取りとなっています。
ドイツはまだ降伏しておらず、ヨーロッパからの艦船襲来は考えにくく、当時のオーストラリアにはそれほどの海軍力は無く。
敵国はアメリカ海軍の一択で、難攻な日本本土の攻撃よりも、南西諸島エリアへの侵攻が1番現実的な状況でした。
連合艦隊の旗艦は既に武蔵へと移っていましたが、大和と武蔵がそこへいることの戦闘力は計り知れなく、その分、防衛力も高かったと思われます。
しかしその防衛力が瓦解したのが、ミッドウェー作戦で、海戦へ大和を始めとする本隊が間に合わず、完全な作戦負けと言わざるを得ません。
ミッドウェー海戦では、優秀なパイロットだけでなく、有能な指揮官も失い、艦を操り営む優秀な人材も4割失いました。
これが後のレイテ沖海戦で脆弱さとして表面化し、サマール沖海戦では日本海軍の無力さを露見させる要因の1つとなります。
サマール島は現 フィリピンの島で、1944(昭和19)年10月中旬にフィリピンへ大々的に侵攻してきたアメリカ軍に対して。
日本の連合艦隊は総力を挙げて迎撃を敢行したものの、10月20~25日の全面総力戦で空母4隻、巡洋艦10隻、駆逐艦等多数を失ってしまいました。
サマール沖海戦はレイテ沖海戦の一部で、10月25日に日米の正面衝突で行われた史上最大の海戦で、大和は栗田艦隊の旗艦として絶対優位な立場にありました。
が、この戦いで大和の高性能が裏目に出ます。
相手が戦艦や空母などの軍艦だと、まず使用するのは九一式または一式の徹甲弾で、敵艦の装甲を穿通した後に内部で爆発する仕様です。
1発の弾の重さは1,460kgで、少し軽量な普通車と同じ重量の物が、マラソンのスタート位置辺りから飛んで来る訳です。
地球は丸いので42km離れた所から撃たれると、アメリカ艦隊から大和の姿は水平線の下なので、当然ながら見えません。
海の上で敵艦が見えないのに、弾だけが飛んで来る。
そして命中するのですが、その時に参戦していたアメリカ艦は、重装甲の艦では無かったため、大和の徹甲弾は艦腹に留まらずに、貫通して海へ落ちてしまいます。
42km遠くから撃たれた弾は、ほぼ水平に飛んで来て命中するので、弾の当たり方や貫通した側の穴の空き方にもよりますが。
艦体に穴が開いても沈没しませんし、サマール沖海戦では撃沈となっていません。
本来は艦腹へ留まり、その物理的な運動エネルギーで遅延信管が作動して、敵艦内部で炸薬を起爆させることで最大の破壊効果を発揮します。
が、貫通して海へ抜けてしまうと、爆発しなかったり、しても海中なので敵艦へダメージは与えられません。
世界最大の45口径46cm砲が火を噴くも、この海戦では敵艦を撃沈させることがかなわなったものの。
アメリカ軍へ恐怖を与えたことは間違いのないところでした。
尚、アメリカの最新戦艦であるアイオワ級が搭載する50口径40.6cm砲の最大射程は39kmで、アメリカ艦隊の射程距離へ入って来た時、アメリカ兵たちは驚愕します。
日本の兵士が初めて大和を見た時「島かと思ったら戦艦だった。それが大和だった」との思い出を、戦後に語っていますが。
同じ感想を、戦場で交戦中にアメリカ兵は感じた訳です。
今でこそ、同等な大きさの豪華客船やそれ以上の大きさのタンカーが存在していますが、当時としては海上の要塞そのものだったことでしょう。
敗戦へ導いたレイテ沖海戦
実はアメリカの航空部隊はレイテ沖海戦の時、実際に使える対艦兵器をあまり所持していませんでした。
それ故に、雷撃機が突っ込んで来たり戦闘機が甲板を機銃掃射したりといった攻撃を繰り返し敢行していたのですが。
日本側はその派手な攻撃に攻め込まれていると錯覚し、当然ながら魚雷搭載の潜水艦もいるとの警戒心から。
旋回行動をせざるを得ない戦況となり、アウトレイジ時の大和の砲撃以外、近接戦では弾を相手に命中させる精度が落ちていました。
アメリカ艦隊はアメリカ艦隊で、もう自分たちは詰んでいることを分かっており、とにかく何でもいいからと必死だった訳ですが。
特にレイテ沖海戦の中でもサマール沖海戦区域では、大和の登場に度肝を抜かれており、とにかく逃げの一手の艦隊でした。
砲撃をしながらの退避でしたが、攻撃は航空機にほぼ全面的に任せており、まずは戦場を離れることが最優先でした。
追いかける日本の栗田艦隊も、激しい機銃掃射に遭いながら、潜水艦を警戒心しての旋回運動をしながらで、弾が当たるはずも無かった状態でした。
対艦兵器も微量、潜水艦の援護も無いため、必死に逃げるアメリカ軍と、それを知らないで詰め切れない日本軍。
更に、サマール沖海戦の前に栗田艦隊は疲労困憊状態でもありました。
日本連合艦隊は10月22日に出航し、10月23日にはアメリカ軍の潜水艦がパワラン島沖で魚雷攻撃を仕掛け、重巡洋艦2隻を撃沈し、もう1隻を損傷させました。
栗田中将の旗艦だった重巡洋艦の愛宕が撃沈された2隻の内の1隻で、栗田中将は海中へ放り出された後に、駆逐艦 岸波に救助されて。
その後に戦艦 大和へ移乗して将旗を掲げ、栗田艦隊旗艦としてレイテ湾へと向かいます。
10月24日、中央部隊は大規模かつ長時間の空襲を受け、約259回の出撃で攻撃されたために作戦時間に遅延してしまいます。
そこで艦隊は夜通し進撃し、10月25日の早朝にアメリカ護衛空母部隊 タフィ3を攻撃できる位置に到着します。
暗闇の中、警戒しながら一晩中進撃した上に、悪天候で北東の風のスコールに遭い、是れにより戦闘の配置がすべて影響してしまいました。
いくら訓練を積み上げた海軍兵と言えども、睡眠時間が確保できずに悪天候で出会った、サマール島での敵艦隊だった訳でした。
この後、栗田艦隊は戦後以降も議論の的となる「謎の反転」をすることになります。
栗田艦隊の「謎の反転」とは、レイテ沖海戦で、アメリカ軍上陸部隊(輸送船団)を攻撃する直前に。
アメリカ機動部隊との交戦を避けるためと称して反転し、レイテ湾突入を断念した事件です。
この不可解な行動は作戦の成否を分けた最大の謎とされ、結果として日本海軍の敗北を決定づけて、多大な犠牲を全て無駄にした決断でした。
戦後も「臆病だった」「英断だった」など様々な議論を呼びましたが、レイテ沖海戦の時点でのアメリカ軍は、戦力的に完全に日本を下回っていました。
強行に攻撃をしかければ、戦いに絶対は無いと言うものの、アメリカ軍の一掃は果たせたと考える方が自然な状況です。
ミッドウェー海戦で熟練パイロットを多数失ったとは言え、航空戦力もまだアメリカ軍に引けを取っておらず、大和も武蔵も現存でした。
その前後の言動を見ても、栗田中将がアメリカ側へ寝返っていたとは考えにくいものの、結局この反転で日本は敗戦国への道を歩むことになります。
この「謎の反転」は、日本海軍が艦隊決戦で米海軍に勝利する最後の機会を失わせ、太平洋戦争の敗北を決定づける一因となったとされています。
レイテ沖海戦は6日間の海上戦役となり、サマール沖海戦・シブヤン海海戦・スリガオ海峡海戦・エンガノ岬沖海戦といった4つの海域での戦闘でした。
海戦ばかりに目が行きがちですが、その他に基地航空部隊による交戦も頻繁に行われており、神風特別攻撃隊が初めて組織的に運用されて戦いでもありました。
艦艇の数だけ見ればアメリカ軍にオーストラリア軍が加わって、日本軍が手薄に感じられますが、ここは日本の直轄地でした。
外から侵攻して来るアメリカとオーストラリアの共同軍よりも、輸送船団や上陸前部隊が展開する前であれば、陸軍の支配地であるが故に地の利がある分、総合で戦力的に日本が有利な状況でした。
が、栗田艦隊反転後の日本は完全に劣勢へと回り、前述の通り多くの艦船と戦艦武蔵を失いました。
連合艦隊の残存戦力の全てをつぎ込んだこの海戦で、日本海軍はこの海戦を最後にして事実上壊滅し、侵攻した連合国軍の最高指揮官マッカーサーは、25日夜半に同島へ司令部を設置しました。
その結果、テニアン島から日本へ航空機が往復できるようになり、連日、日本列島のどこかで空襲が行われ、やがて人類史上初の核攻撃が実施されます。
大和は日本をしっかり背負った
1934(昭和9)年頃から徐々に設計が始まり、1937(昭和12)年11月4日に呉市の呉海軍工廠で起工された大和。
これはワシントン海軍軍縮条約脱退を前提とした極秘計画(計画名A140F5)で、日本が国力を結集した世界最先端の科学の結晶で、世界最大の戦艦でした。
1940(昭和15)年の8月8日、戦艦大和は竣工して秘密裏に進水式が行われました。
その後、1年余りの艤装期間を経て、太平洋戦争開戦直後の1941(昭和16)年12月16日に就役。
1942(昭和17)年から太平洋各地の戦場へ赴き、国防の守護神として君臨します。
そして1944(昭和19)年10月25日、フィリピンのサマール島沖で発生した海戦で。
日本海軍の栗田健男中将率いる第二遊撃部隊 = 栗田艦隊の旗艦として、戦艦大和は護衛空母部隊 タフィ3を攻撃しました。
大和は、この海戦で初めて敵艦隊に向けて主砲を発射しましたが、これは最初で最後の実戦での砲撃となりました。
この海戦は、大和が直接的に敵艦を撃沈するような戦果は上げられず、レイテ沖海戦の激戦の一部として、その巨大さと威容がアメリカ軍に恐れられました。
この海戦での大和の登場と砲撃は、アメリカ兵に「動く要塞」として恐怖を与え、艦隊も大和の接近に戦意喪失して、撤退に追い込まれました。
まさに、国の威容を世界に示す存在として建造され、その面目躍進した唯一の海戦でした。
軍縮条約の影響で、戦艦 陸奥 以来約20年ぶりの新型戦艦となった大和。
日本の軍事的優位性を保つため、建造にあたっては情報が外へ漏れないよう、軍の最高機密として作業が進められました。
そのため、本来は華々しく行われるはずの進水式も、この世界最大の戦艦は、誰にも見られずにひっそりと実施されました。
しかし広大なソロモン諸島、パプアニューギニア、東ティモール、ジャカルタ、マレーシアを有する海域で、守護神として絶大な存在感を示していました。
日本 外地の国防には、やはり必要不可欠だった艦であり、国際情勢的に短い期間ではありましたが、平和と秩序を堅持させた艦です。
レイテ沖海戦を生き延びた大和は、母港の呉で待機することになりましたが、1945(昭和20)年4月、決戦の舞台である沖縄へ出港します。
沖縄に来襲したアメリカ軍に対しレイテの借りを返すため、そして2度と会えない大切な人たちを守るため、大和は「座礁して砲台となる」命令を受けます。
しかしその行動はアメリカ側に直ぐさま察知され、援護の航空機が1機も与えられなかった中で、薩摩半島沖合でアメリカ軍空母艦載機の波状攻撃を受け。
沖縄にたどり着くことなく4月7日に東シナの海底へ着床し、3000名以上の乗組員と共に永遠の眠りに着きました。
あの戦争で命を失った戦士、生き残り戦後の日本を再建した先人、彼らが守った未来は今私たちが暮らしている現代です。
それを忘れずに日々を生きていかなくては、私たちの未来にいる人たちの、平和な暮らしはまもれません。
ところで、この戦艦大和は2代目で、初代は1883(明治16)年に建造された帆船タイプの海防艦でした。
軍艦から訓練艦そして測量船へと格下げされたものの、初代大和は終戦後まで残り、1950(昭和25)年に解体されました。
太平洋戦争開戦と共に生まれ、敗戦の直前に沈没して逝った2代目大和、明治維新後の近代化の最中に生まれ、戦後まで生きた初代大和。
今日はその両方に日本の運命を背負った2隻の大和へ、想いを馳せてみたいと思います。
ちなみに3代目?となる宇宙戦艦ヤマトは、アニメ放送開始が1974(昭和49)年10月6日でした。
海軍の街 呉が•••••••
日本製鉄呉が撤退し、呉市のみでなくて広島県の経済活動に、悪影響が及び始めていましたが。
防衛省がかつての海軍工廠跡地へ、次世代ファクトリーを展開することに決まり、広島県と呉市は防衛省を中心に据えた街づくりを計画しています。
そこへJR西日本から、広~三原間の不採算路線について、今後の方針を話し合いたいと申し出がありました。
これは同区間が、新たに輸送人員2000人未満の線区として加わったと言う宣言で、JR西日本は、「大量輸送」という鉄道の特性を十分に生かせていないと、広島県と沿線自治体へ連絡したということです。
過去3年の経営状況は「赤字額:約13億7000万円」だと公表され、直ちに存廃協議に入る訳ではないものの、これからのあり方を考えたいとの話しでした。
「公表区間は大量輸送という鉄道の特性を発揮できておらず、赤字額より、まちづくりの役に立てているかどうかが問題だ。利用実態を反映した収支率を指標に、自治体などと議論を深めたい」としています。
呉線沿線は、現在、再構築協議会が進行している芸備線に比べ、有力観光地やアニメの聖地が点在しており、もっと観光事業やまちづくり中心に、活用路があると見ています。
防衛省の再開発事業もあるので、それらを一体として都市計画を建てて欲しいと、今はまだそう考えているようです。
呉市としては寝耳に水だったようですが、JR西日本は35km/hの低速規制がある路線を、どうにかしたい意向が強いのは確かなところです。
高速大量輸送が果たせていないとは、人口減少だけでなく、高速で走れないと言う問題が隠れています。
恐らくJR西日本は、沿線自治体と同じく、国交省の責任も国へ苦言を呈しているのでしょう。
アジア各国や欧米に絶大な人気のある旧 日本海軍と、世界ブランドである戦艦大和を軸にもっと、包括的な観光戦略は築けないものでしょうか。
しかし突然のJRという新たな問題が湧いたことで、呉市はやや迷走気味な施策へ陥っているようです。
まず、呉市中心部の中央公園で例年開催している「イルミネーションロードくれ」が今年、中止となりました。
企画内容を巡り、実行委員会を構成する呉商工会議所と市の考え方の食い違いが生じたことなどが要因とされています。
商工会議所と市によれば、今年は大型クリスマスツリーの電飾を軸にエリアを絞って開く内容だったものの。
市は9月に「エリアを広くした方がいい」との意見を出してきたといいます。
商議所は「企画を途中で否定するのはおかしい」とし「市が直接、事業者に変更の指示を出した」と非難をしました。
市は「事業を良くするために意見は述べた。事業者に指示は出しておらず、認識の相違がある」との態度をとっています。
市は10月、当初の企画内容を受け入れたましたが、実行委会長を務める商議所の若本祐昭会頭は「市と信頼関係を築けない」と今月2日、中止を決めました。
今年は中止となりましたが、来年から再びイベントを催すことができるかどうかは、不透明なところとなっています。
そして、旧海軍ゆかりの施設 「青山クラブ」や呉市立美術館のある幸町地区の在り方を検討する有識者会議が行われて。
その時に、青山クラブの建物の一部を耐震補強して保存し、残りの大部分を解体した跡地に美術館を新築する案を軸に、同地区のエリアデザインを進める方針を申し合わせていました。
青山クラブは鉄筋3階、地下1階の広大な建物で、1 936(昭和11)年に建築され、旧海軍集会所として使われてきました。
保存には大幅な改修、補強が必要で、同会議で全部保存や一部保存、 外壁保存の案を議論してきた経緯があります。
建物の曲線が特徴的なJR呉線側の一部を残して大部分を解体し、跡地と中庭のエリアに2階建ての美術館を新築する方向で進めるとする意見が多く出て。
市の概算では、青山クラブの整備は一部保存が約33億円で、全部保存は約93億円、外壁保存だと約50億円と、比較して一部保存が費用を抑えられるとしています。
また、市は美術館新築費として約24億円、現美術館を歴史展示室や収蔵庫として使うために改修する場合の費用を約7億円と見積もっています。
会議では「市民の中にある青山クラブのイメージを保存し、呉の将来のための場としていくことが重要」 「将来世代の負担にならないよう残すならば、スリム化は避けて通れない」などの意見があります。
会議では「市民の中にある青山クラブのイメージを保存し、呉の将来のための場としていくことが重要」 「将来世代の負担にならないよう残すならば、スリム化は避けて通れない」などの意見があります。
一方、音楽ホールなどがある桜松館について、耐震改修して全体を保存する方向で議論してきていましたが、整備費が約25億円と高額になることや中庭を生かす観点から「無理に保存する必要はない」との意見も見られていました。
市は2018(平成30)年に、青山クラブと桜松館の建物と土地を約2億円で購入。
有識者会議を設け、2023(令和5)年5月から施設活用の方向性などを検討しつつ、会議の議論を踏まえ、2024(令和6)年度中に同地区の整備方針を策定する予定でした。
ところが、市は12月12日、建物すべてを解体する方針を示します。
外観デザインを継承した上で、美術館やホールを含む複合施設を新築することを基本として、2025(令和7)年度中に基本計画をまとめるとしています。
複合施設整備に関連する事業費は約64億円。
内訳は青山クラブの解体費約11億円、大部分が隣接する桜松館の解体費約3億円。
複合施設の新築約50億円とし、現美術館の改修や空中回廊の整備を加えた幸町地区総合整備全体の事業費は約85億円に上るとの試算を示しました。
1936(昭和11)年に建築された旧海軍の遺構を、有識者会議の提言を受けて市が2月にまとめた整備方針では。
建物の印象的な曲線部分のイメージの継承を重視し、建物を一部保存するとし、一方で、保存の範囲や方法は柔軟に設定するとしていました。
市によると、複合施設整備の関連事業費は、 建物の一部を残し美術館部分を新築する場合は約87億円で。
市によると、複合施設整備の関連事業費は、 建物の一部を残し美術館部分を新築する場合は約87億円で。
外壁だけを一部保存した上で施設全体を新築する場合は約68億円になるというものの、「外壁だけ残す工事は難しく新築部分と高さを合わせられない」と市は説明します。
解体方針に委員の一人は「下士官がお金を出し合って建て、空襲にも耐えた『生き証人」だけに残念」と漏らして。
解体方針に委員の一人は「下士官がお金を出し合って建て、空襲にも耐えた『生き証人」だけに残念」と漏らして。
別の委員は「形状を残すだけで本当に歴史をつなげられるのか」と疑問を投げかけました。
市は「建物の床素材などは、 移設できるか調査した上で活用したい」との考えを示しましたが、ここでも文化財の保存について、簡単に解体を選択する文化意識の低さが嘆かわしく感じます。
呉線の問題、人口減少の問題、税収と支出の問題が、目先の利益に飲み込まれていきます。
去日、労働者の最低賃金の改定がありましたが、広島県は1,085円で全国11位となっており、県外流出に歯止めをかけたい施策として65円のベアとなっています。
しかし物価が高い広島で、全国11位の順位は最低賃金の値上げで、余裕は生まれるのか?
地元企業に支払い能力がなければ、会社が倒産してしまうので、あまりムリも言えませんが、人口流出を止められるほどの効果は、無いように感じます。
ただ、芸備線沿線も呉線沿線も、人口が増えればさまざまな問題は少しずつ解決するでしょうけれど、新見市や三原市といった都市が。
もっと力を持たないと、そこを結ぶ鉄道は廃線を余儀なく受け入れざるを得なく、市政都市の衰退は。
財政再生団体に指定され、事実上の財政破綻への道を歩むことになります。
まずは赤字決算でも黒字経営の企業と同等に徴収される、消費税の撤廃か、できないのであれば改正しなければ、国民も企業も持ちこたえられません。
最後に、艦これ大和と森雪ヤマトのインスタを貼っていましたが、小泉進次郎防衛大臣のコメントへ差し替えました。
国民の身体・生命・財産を守る責務を負う日本国家。
85年前と現代と価値観と世界観は異なりますが、国民の人生と安心そして命を守るという国の使命は、高市早苗総理そして小泉進次郎防衛大臣が主張するものと、今も昔も何ら変わりません。
そしてこれからも変わってはならないものです。
☆被爆2世が語る平和記念日と世界史☆
May the world be filled with peace and happiness.
(世界が平和と幸福で満たされますように)
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