会いたい。もっと彼女を見ていたい。もっと声を聞きたい。

彼女を知りたいと切に想い、僕のことを知ってもらいたい、話を聞いてもらいたい。そのためならどんな犠牲も厭わないと思った。

情熱的になる瞬間。

胸が苦しいのに、でも、体の奥底から熱が溢れてくるような、力強い衝動が、内部から僕を後押しする。

膨張してゆく野生的とも言える本能と、思考で抑圧しようとする理性の戦いは、本能に軍杯が上がる。

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夢を見た。

夢の中で、懐かしい女と再会した。

情熱的で、衝動的なあの感覚は、夢の中の出来事だったのか、それとも、夢を見ている僕が感じて、選択していた感情なのか…。

どちらなのかはわからないけど、目が覚めてからも、その余韻は長く続き、あの頃の想いと同じように、今でも自分の中に、こんな情熱が残っているということに驚いた。

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命がけの恋、なんて言うと、まるで昭和歌謡の世界だ。

しかしやはり僕は昭和気質の人間なのかもしれない。命がけとは言わずとも、過去には気が狂いそうなほど、誰かを好きになったことがある。

惚れっぽい男だったと思う。すぐに熱を上げた。

と言っても頭おかしくなるくらい誰かを好きになったのは、過去に数人ほどだと思う。主に10代と、20代前半の、情緒がジェットコースターのような時期の出来事だ。

しかしよく考えてみれば、恋ほど身勝手なものはない。

恋という感情ほど、エゴイズムなものはない。

大人になって、心理や、精神性、そして霊性のことを学び、体験し落とし込む内に、人間の感情や思考のシステムをいくらか知るようになり、そう思う。

もちろん、恋は素晴らしいと思う。しない人生もあるだろうけど、恋をする人生は味がある。しかし、それは愚かなものでもある。

恋は、相手のことを考えているようで、自分が相手にどう思われているかを考えている。

相手に何をして欲しいのか、相手にどうなってもらいたいのか、どう接してもらいたいのか、そればっかり考えているようなものだ。

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先日、奥高尾を山登りをして、下山後、ローカルバスに乗った。
 
途中で、小学1、2年生くらいの男女の児童がバスに乗り込んできた。

女の子の方は、明らかに一緒にいる男の子のことが大好きな様子だった。恋する乙女の目だ。

男の子の方はそこまで好きでもない感じだったが、女の子は手をつなぎ、ひっぱり、席も隣に座らせ…。言われるまま、引っ張られるまま、でも、まんざらでもなさそうな感じで、隣に座る。

ずいぶん「グイグイ」行く女の子だなと思った。そしておとなしい男の子だなと。今の時代なのだろう。ちなみに僕はこの手の「グイグイ」と来る肉食女子は苦手だ(笑)

僕は空いている車内の後ろ側に座り、前方にいるその二人、特に女の子を観察して、恋愛とはどういうものかまた改めて知った感じがした。

その女の子は、隣にいる男の子を見ていないのだ。

男の子を見ているようで、その子の中にある男の子のイメージを見ている。そう見てとれた。

彼女が恋をしているのはその男の子ではなく、自分でこしらえた何らかのイメージ。

恋に、恋をしている。恋愛の本質かもしれない。

ありのままの、目の前の男の子を受け入れるのではなく、自分のイメージした姿を投影し、重ね合わせようとする。

だから思い通りにいかないと、グイグイ系のその子は、その男の子コントロールしようとする。

自分のイメージ通りの枠に当てはめようとするのだ。

男の子は時折戸惑いつつも、女の子の要望を受け入れるという役柄をこなしていた。

そんな印象をもった。別に、良いも悪いもない。恋愛とは、特に未熟な内の恋なんてそんなものだ。

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恋。実は相手を見てない。自分で作った「恋」というドラマと、そのイメージを追い求めている。互いの要求が一致すれば、恋愛成立となる。

しかし、そこで何かの間違いで(笑)結婚してしまうと、恋に恋していた夢から醒める。

イメージがなくなると、そこで初めて「現実の相手」を見る。だからがっかりしたり、さらなる要求をして、それが通らないとケンカしたりする。

しかし、今度は「夫」とか「妻」という、新しいイメージを抱くという、堂々巡りを人間はしてしまうのだが…。そこは割愛して、今日は「恋」の話だ。
 
全文はnoteにて
「恋という幻想と情熱」