まだまだまだまだまだまだまだ…、オレはヒヨッ子の甘ちゃんで、尻の青いホーケー野郎なんだなと、先週くらいに自分自身に対して痛感してしまった。

オレが小学生の頃から愛読し、大抵の質問には難なくお答えできるくらい読み込んだ「北斗の拳」で例えるなら、

「名を名乗ることすら許さておられぬ修羅」


 
であり、前回のnoteで書いたけど(売れませんでした…)、「自分は何者でもない」どころか、上の“名もなき修羅”のように、オレもまだ名を名乗る事すら許されていないと言いたくなるくらいのヘタレ具合だ。

いや、修羅にすらなれないのかもしれない。「あべし!」とか言って吹き飛ぶザコキャラかもしれないとすら卑下しそうになる。(北斗の拳を知らぬ人には申し訳ない!)

しかし、こういうことを言うと、

「ケンスケさん、自分を責めるのはよくありませんよ?」
 


みたいな声が聞こえそうだが、先に言っておく。

はあ? 何をしたり顔で言うとるのか!このすっとこどっこい!
(久々に聞いた言葉だな…)

んなことぁわかっとる。自分を責めるのはよくない。自傷行為だ。

しかし、自分を責めないと、人は成長せんのだよ。望む、望まないに限らず。

今まで積み上げたあらゆる自己意識、イメージ、概念が崩れ、現状に愕然とし、打ちのめされ、不甲斐なさに悶え、そこからまた再構築しない限り成長はない。

ふわっとしたスピや自己啓発やら、甘っちょろいセラピーでは、

「そのまんまでいいよ」
「ありのままでいいよ」
「何もしないでも君は素晴らしい存在だよ」


という言葉をよく聞く。

いやいやいやいや! そんまんまでアカンくて困っとるんやから、なんとかせぇや!

だからまず、自分を責めろ。

そして絶望しろ。

希望なんて捨てろ。微塵も光を見出すな。ダークサイドで悶えて、いっぺんそこで死ね。

破壊と再生だ。

それも、もし土台から建て直すとなると、住宅に例えると「リフォーム」レベルじゃダメだ。外観を塗装しても意味がない。

基礎や柱の根っこが腐っているんだから、一度解体作業しないとならない。

『解体=死』ということで、いっぺん死んでこい!と言ってるのだ。

そこで心底と対話をしろ。



「自分の人生がしみったれてるのはなんでだと思う?」
 


お前のせいだ!

 

「物事がうまくいかないのはなぜか?」

お前が悪いんだよ!

 

「嫌なヤツが現れて困ってるのは?」

お前が招いてるんだ!
 


「楽しみなデートで雨が降ったのは?」
 


お前が悪いんじゃボケ!!
 


ってくらい、身に起こることすべてを全部自分に落とし込まんで、人のせい、環境のせい、政治のせい、にしとると、成長するわけない! なんなら過去生のせい?とかほざく輩もいるくらいだ。

と、口が悪くてすいませぬ…。前回に引き続き、今回もオラオラモードの文体になっているが、普段はこんなことはないです。

そしてこれは君に言ってるのではない。

オレ自身に言ってるのだ…。

オレがオレ自身にムカついているのだよワトソンくん。だからこんな荒れた口調なのだ。

まあ聞いとくりゃ。

今までずっと、オレはオレなりに、いつも自分“なり”に、あれこれとよくやってる、そう思っていた。

特にここ数年、ふわっとした、曖昧なものとはできるだけ距離を置き、自分自身「道」と真理の探求のために、自分を投げ打っていたつもりだったけど、全くもって自分は「覚悟」が足りてなかった…。

そんな気がしてならない。

なんでこんなことを突然言い出すかと言うと、

前回の「上さま」に続き、数少ない友人であり、朋友であり、なぜか出会った時から「戦友」という気がしてしまう壇珠(だんじゅ)さんと、先日zoomを使ってお話をしたことがきっかけだ。



彼女とは、2、3ヶ月に一回はこうして近況報告をしつつ、あれこれお喋りをする。

他愛ない話もしつつ、互いの探求の道のシェアもあり、とても楽しく、有意義な時間を過ごさせていただいている。

しかし、先日は彼女の生き様や覚悟、また、彼女のnoteでの「往復書簡」の坂爪圭吾さん(面識はない)の話などを聞いたり、あれこれ彼女の知人の話を聞いていると、皆いかに覚悟と勇気を持って生きていて、それを表現しているのかと、驚かされた。
 
全文はnoteにて
「いっぺん死んでこい」