瞑想について、Facebookにこんな投稿をしました。

 

 

「瞑想」について
瞑想、という言葉はすっかり世間にお馴染みであるが故に、
瞑想という言葉の「定義」や、かなり広い解釈がある。
様々な瞑想法があり、目的があり、効果効能があったりなかったり…。
だから、最近は「瞑想」という言葉を使いたくなかった。
(スピリチュアルという言葉もそうだ)
しかし、ふとここで呟きたくなった。
もしあなたが「瞑想」をしていたり、興味があるのなら、
ひょっとしたら何かの参考になるかもしれない。 
僕にとって「瞑想」とは?
1  瞑想は、がんばるものじゃない
2  瞑想は、眠いものではない
3  瞑想は、何かを得るものではない
4  瞑想に「やり方」や「方法論」はない

長いので以下省略(全文は下記リンクに)

Facebook投稿「瞑想について」

 

この頃、原点回帰という感覚が強い。(こちらのnoteでも書いた→何度でも壊して、何度でも再構築する。)

 

この一年、徹底的に「歩く」こと、身体操作をメインで伝えてきたし、その探求の日々で、ほぼ四六時中、身体の最善、最良の操作を意識して来たと言っても過言ではありません。

 

街を歩いても、人がいれば、その人の歩き方や、骨の形状、気の流れなどを観察していました。

 

仕事だから…やっていた、というわけではなく、好きでやっています。好きでないとこんなオタク作業は続かない。ただ、そこで得た知見は、セッションやワークショップで存分に役立てている。

 

 

しかし、先月くらいから「座る時間」を、あらためて大事にするようになりました。

 

もちろん、瞑想や禅の時間は常にある。自宅でも、山中などの野外でも、座らない日はない。

 

でもせいぜい時間にして2、30分程度というのが、ここ1年ほどだったし、10分くらいだったりすることもあった。

 

しかし、ここ最近は毎日2〜3時間は座っている(立禅もするけど)。

 

と、こうやって書くと「ストイックな…」と思われそうだけど、何度も言うが「好きでやってる」のだし、「1  瞑想は、がんばるものじゃない」と書いた通り、何も苦行をしているわけではない。

 

そして「2  瞑想は、眠いものではない」あるけど、本当の瞑想は眠くもならないのです。

 

身体操作が深まるに連れ、「座り方」が、よりわかってきました。

 

疲れないし、眠くならない座り方、というのがあって、その状態だと「ただ座る」ことが容易になるのです。

 

3  瞑想は、何かを得るものではない

 

とあるので、目的はありません。何か「得る」ためにやるのではない。

 

しかし、結果として何か有意義なものを「得る」のは間違いない。瞑想には、目的はないけれど、有り余るほどの「副産物」があるのは事実です。

 

それは「健康」だったり、「気分の晴れやかさ」だったり、「穏やかな気持ち」だったり、または「エネルギー的拡張」や「霊的直感」など、色々とあるのだけど、今日のテーマ。

 

「悩み」や「問題」

 

という現実の滞りに対して変化が起きる、というのも大きな副産物だと思う。

 

全文はnoteにて

 

 

 

久しぶりに、「がちんこ」な瞑想をやろうとおもいます。

 

本気で、自分の人生を軽やかに生きるために、頭の中の「悩み」から解放されたい方、一生モノの瞑想法です。上記リンク内から