📌初めての方へ
📌ちょっと大事な落とし穴の話
※このブログは、
思想ではなく この身体から書いています。
▶︎どこから言っているかで、まるで別物になる。
スピリチュアルの世界には、言葉がたくさんある。
設定する。
意図する。
決める。
手放す。
委ねる。
齎される。
本来の自分に還る。
周波数を整える。
宇宙にお任せする。
どれも、それぞれ、使う人にとって
きっと大切な言葉なのだと思う。
わたしも、何度も聞いてきたし、
その言葉に救われたこともある。
でも最近
あらためて感じていることがある。
それは、
その言葉を、どこから言っているのか。
ここが、ものすごく大事だということ。
同じ言葉でも、
どこから言っているかで、
まるで別のものになる。
それに気づいてしまった。
たとえば、
「設定する」
この言葉ひとつでも、
外側の現実を都合よく動かしたくて使うのか。
それとも、
「わたしはどう生きるのか」
「わたしは何を大切にするのか」
という、自分の人生の向きを定めるために使うのか。
これ、もう全く別物。
「決める」もそう。
決めたら天気だって味方するかもしれない。
決めたら相手が変わるかもしれない。
決めたら現実が思い通りになるかもしれない。
そうやって、外側が動くかどうかを見張っているなら、
それは本当の意味で決めているのではなく、
まだ外側に安心の鍵を渡しているのかもしれない。
本当に決めるとは、
外側を動かすことではなく、
わたしは、この状況の中でどう在るのか。
そこを明確にすることなのだと思う。
「手放す」もそう。
本当に手放しているのか。
それとも、
手放したら入ってくるはず、
手放したら変わるはず、
手放したら現実がよくなるはず、
と、まだどこかで結果を握っているのか。
「齎される」もそう。
美しい言葉だと思う。
でも、
ただ何もせず待っていれば、
宇宙が何かを持ってきてくれる、
という意味ではないと思う。
本質の場所に戻り、
外側をコントロールしようとすることをやめ、
それでも今できることには静かに触れていく。
その先で、
必要なものが自然に立ち上がってくる。
それが、齎される、ということのではないかと思う。
だから、言葉だけを切り取ると危うい。
「決める」だけを切り取れば、
現実操作になる。
「齎される」だけを切り取れば、
少しふんわりと聞こえてしまう。
「手放す」だけを切り取れば、
本当は握ったまま、手放したふりが生まれてしまう。
「設定する」だけを切り取れば、
外側をこちょこちょ動かす魔法のように思ってしまう。
でも、本体はそこではない。
大事なのは、
その言葉を使っている時、
わたしの意識はどこに居るのか。
外側に飛んでいるのか。
誰かの反応を見に行っているのか。
結果を見張っているのか。
不安を消すために、その言葉を使っているのか。
それとも、
この身体の中に居るのか。
自分の場所に戻っているのか。
外側に鍵を渡さず、
この身体の奥から言葉を出しているのか。
ここなのだと思う。
スピリチュアルの世界では、
身体が大事、
グラウンディングが大事、
今ここに在ることが大事、
という言葉もよく聞く。
それは、本当に大切なこと。
でも、
身体が大事と言いながら、
意識は外側へ飛んでいることがある。
グラウンディングと言いながら、
現実が変わるかどうかを見張っているだけ、のことがある。
本来の自分に還ると言いながら、
誰かに認められる自分を探していることがある。
手放すと言いながら、
手放した先に何が入ってくるかを期待して見張っていることがある。
だからこそ、
言葉やメソッドの前に、
見たいところがある。
いま、意識はどこに居るのか。
ここ。
どんなに美しい言葉でも、
意識が外側へ飛んだままなら、
その言葉は外側を動かす道具になってしまう。
どんなに深いメソッドでも、
自分の場所に居ないまま使えば、
また外側に自分を探しに行くことになる。
逆に、
この身体の中に居るなら。
自分の場所に戻っているなら。
動いてもいい。
待ってもいい。
取りに行ってもいい。
委ねてもいい。
何かを決めてもいい。
手放してもいい。
大切なのは、
行為の形ではなく、
その出どころ。
身体に居ないまま動くと、
外側を取りに行くことになる。
身体に居ないまま待つと、
ただの受け身になる。
身体に居ないまま決めると、
現実操作になる。
身体に居ないまま手放すと、
手放したふりになる。
でも、
身体に居るなら。
動くことは、
今できる一歩になる。
待つことは、
熟すものを信頼する静けさになる。
決めることは、
人生の向きを定めることになる。
手放すことは、
本当に自分ではないものを降ろすことになる。
だからIBCでは、
まず意識の居場所を身体へ戻していく。
外側へ散っていた意識を、
この身体の中へ。
誰かの目の中に置いていた自分を、
この身体の奥へ。
結果を見張る意識を、
骨へ、呼吸へ、今ここへ。
何かすごいことを起こすためではなく、
わたしが、わたしの場所に戻るため。
そこが抜け落ちたまま、
スピリチュアルな言葉だけを使うと、
どれだけ美しい言葉も、
いつの間にか別のものになる。
真理の言葉が、
外側を変えるための言葉になる。
委ねることが、
現実から逃げることになる。
手放すことが、
本当の望みを見ないことになる。
決めることが、
外側を動かすための設定になる。
でも、本当はきっと、そうではない。
設定も、意図も、決めることも、手放すことも、
すべては本来、
自分の場所へ戻るためのもの。
自分の人生を、
外側任せにしないためのもの。
わたしはどう生きるのか。
わたしはどう在るのか。
何が起きても、
どこへ戻るのか。
そこを思い出すためのもの。
だから、
何か美しい言葉に触れた時。
何か良さそうなメソッドに出会った時。
誰かのすごい体験を見た時。
一度、立ち止まって見てみる。
それを真似したい私は、
いまどこに居るのか。
外側を変えたいのか。
安心したいのか。
認められたいのか。
それとも、
この身体の中から、
本当にそう在りたいのか。
そう問うことは、
とても地味だけれど、
とても大切だと思う。
言葉の前に、
メソッドの前に,
願いの前に。
まず、わたしはどこに居るのか。
そこから始める。
この身体の中に、
わたしが居る。
そこから出てくる言葉は、
同じ言葉でも、きっと響きが変わる。
そこから起こる行動は、
同じ行動でも、きっと質が変わる。
そして、
そこから始まる人生は、
少しずつ、
外側に振り回されるものではなく、
わたしの内側から響いていくものになる。
____




