原爆被災者が受ける差別としても典型的なのが、井伏鱒二の「黒い雨」や重松静馬氏が書かれ相馬正一氏が編集され筑摩書房から出された「重松日記」にも登場する矢須子(高丸安子)さんでもあろう。先日も書いたが安子さんは私が卒業した神辺高校の前身の学校で県立深安実業学校である。

 安子さんは上記の学校を卒業後に叔父でもある重松夫妻が原爆投下時にも住まわれていた広島市千田町の住まいに同居されて、静馬氏の紹介にて日本通運宇品支店の会計係の補助として働き始め原爆投下時においては爆心から4キロ強と離れているとは言え、窓ガラスは爆風で割れ、「黒い雨」の降雨も大瀧雨域によれば降っているのである。

 

 そして、安子さんは原爆投下後に重松夫妻の安否が気にして一旦は千田町の方向へと足を運んでもいたが、あまりにも酷い状況なので途中で引き返したと重松日記に書かれている。その間にも雨が降ったとも十分に考えられるのである。その後の3人の足取りは午後くらいから、再び千田町の焼失した貸家跡に寄り、古市に向けて横川方面に歩き、電車が不通だったので山本駅(可部線・下紙園?)まで歩き、そこから満員電車に乗り古市の工場に向かっていたとすれば、その間にも雨に接していた事も十分にあり得るのである。しかも、爆心近くも歩いていれば、吸入による「内部被ばく」も十分に考えられるのである。

 しかし、安子さんは当時の自身の日記を故意に焼失させていて、また、自身の病院でのカルテも病院側(福山市・藤田病院)で破棄された事から原爆病であった事が伏せられていたとされている。これは何故であろうかと考えてみれば、そこに浮かぶのは中国地方の特有な差別意識とも考えられるのである。だからこそ、「重松日記」は子孫のためにだけ書かれたとされているのだろう。井伏鱒二氏は敢えて重松日記(被爆日記)を最初の題名の「姪の結婚」から「黒い雨」に変えたのも上記の理由があるからだと私は推測するが、井伏氏の「黒い雨」のすべてが創作では無いと十分に確信しているが、毎日新聞記者の小山美砂氏は「井伏鱒二氏の『黒い雨』は有名でも、黒い雨を浴びた人たちがどのような健康影響を訴え、またどんな境遇に置かれてきたかを記したノンフィクションが存在していなかった...」という「あとがき」の記述には私は納得ができないのである。何故ならば、高丸安子さんは敢えて病身の体で子を宿されてもいる。そして、井伏鱒二氏の「黒い雨」の最後には重松氏の「今、向こうの山に虹が出たら奇跡が起こる....矢須子の病気が治るんだ」と結び、どうせ叶わぬことと分かっていてもそのように念じて占っている。はたして、これがノンフィクションとは言えないのであろうか。

 

2022年8月26日

船橋市海神:弓場清孝