「大晦日の第九:ベートーヴェンの真価を聴く」
1824年5月7日、ウィーンのケルントナートーア劇場で初演されたベートーヴェンの第九交響曲。
それから201年が経過している。
私達日本人は2025年の極東に生きているが、
何故か大晦日には第九を聴く人が多い。
12月のコンサートホールはどこも第九の演奏だらけ。
そもそも201年前と今では状況が全く違う。
当時、どのような作曲意図があったにせよ、
私達現代人には歴史の積み重ねがあり、
そこを抜きに作品鑑賞をしても感動するのは難しい。
とは言え、作曲された背景を知らない限り、
真価は知り得ないし、
これまた感動するのは難しい。
またどこで、どんな民族のために、
と言うのも大切だ。
やはりその発祥の地、
ゲルマン民族によるゲルマン民族のための演奏が好ましい。
ベートーヴェンの音楽とは、
背景を共有しない者には、
表層の美しさしか聴こえない。
そして歴史として未だに私達現代人にとって決して忘れられないのは、
第二次世界大戦であり、
ベートーヴェンの音楽も盛んに奏されていた。
おそらく今私が最も安心して聴ける、
完璧な第九はカラヤン指揮の戦後のものだ。
当時出始めた最新のCDの規格を、
カラヤンの第九を1枚に収めるためにソニーが決めたのは有名な話だ。
完全主義者カラヤンの演奏は、
賛否両論あるが、
私にとっては時代の人でもあるため、
非常に好んでいる。
だが最高の第九と言われているのは、
1951年バイロイト祝祭でのフルトヴェングラー演奏盤だ。
確かに素晴らしい。
だが、評論家によっては、
第二次世界大戦後の贖罪を込めた演奏との意見も聞いた事がある。
この演奏も私はとても好んでいるのだが。
一番となると、違う。
どうしても私は1942年のフルトヴェングラーではないか?と思ってしまう。
それはこの時代背景と第九の解釈が完全にマッチしているからだ。
この交響曲とはそもそも一体何なのか?
それは人類愛と言われるが、
人類愛とは私達の理想であり希望だ。
そしてそれは突き詰めて行くと「狂気」となり、
芸術の真髄もまた「狂気」であり、
非常に危険な側面を持つものだ。
1942年とは第二次世界大戦中であり、
まだまだドイツは強かった時代でもある。
その後の悲惨な大量虐殺は人類史の汚点であるが、
この世界大戦が起こった原因は間違いなくベルサイユ体制の大失敗にある。
戦前のドイツは貧しく、
飢えていた時代であったのを見逃してはならない。
現代の飽食の時代において、
肥えた豚がシャンパンを片手に聴く第九とは全く違う。
ようやく立ち直ったドイツが、
世界大戦を仕掛けた時の第九演奏とは。
それは、希望だ。
歴史を知る者は、それはダメだ、と言うだろう。
しかし1942年のフルトヴェングラー演奏には、
希望を恐ろしく強く感じる。
この映像はプロパガンダだ、と言う者も多いだろう。
しかし演奏の良し悪しとは、
演奏で決まるものであり、
聴いた者の心で決まるものでもある。
プロパガンダも思想も関係ない。
1942年のフルトヴェングラーは、
反ナチスでも有名であり、
観客にいるのはゲッベルスを筆頭にナチスの重鎮達。
この極端な皮肉は芸術の真髄「狂気」、
そして「希望」を見事に表現しているが、
聴き方を間違えるとそれは危険極まりない。
だが、その魅力こそが芸術なのだ、とつくづく毎年大晦日に思う。
↓ベルリン・フィル カラヤン指揮↓
https://youtu.be/O3MVY6UiMag?si=hdhBZ1sqjwTsFAbV
