今日は私の経歴についてお話したいと思います。
ちょっと長くなるかもしれませんが、セラピストとして活動している私がどのような人物なのかを書いていきたいと思います。


~プロフィール~
1978年  愛人の子という境遇を自ら選んでこの世に誕生

小学1年くらいから母が神だーり(標準語での訳が難しいのですが、神の道を進むべき人が進んでいない時などに精神のバランスを崩したりおかしくなってしまうような状況?)になり精神バランスを崩しており、普通に友達と家の前で遊んでいると「うるさい!!」と怒鳴られるような生活でした。でも調子のいい時には優しい母で、私は母の事が大好きで母を怒らせないようにと顔色をうかがいながら過ごすようになっていました。

明るい性格だったがその頃から学校など集団の場では本来の明るい姿を見せる事ができなくなっていて、そのためかいじめられることも。
逆に仲間内で自分がいじめる立場になる事もありました。

中学の時にはいじめがひどくて机に「死ね」と書かれたりしていて、いじめている奴らを殺してやりたいと思う程だった。包丁を見ると持っていこうかとよぎる事もありました。でも「こんな奴らの為に自分が刑務所に入るなんてアホらしい」と思って思いとどまりました。
母には心配かけたくなかったのでその現実を話す事ができずにいました。


 
高校を卒業してドラッグストアやボタン店で働くも「何かが違う」と1年くらいしか続か   ず。

24歳の時ある人に、将来本当に貧しい国でボランティアをしたいという話をした時に看護師の資格をとったら自分のやりたいことにつながると気づかされました。
そこから猛勉強をして看護専門学校を受験し、1発合格。一人暮らしをしていたのでバイトを朝から晩まで入れて早朝から勉強する生活でした。
  
准看・正看を取得し一般科の病院へ就職。急性期のとても忙しい病棟でルーチンをこなすだけで精一杯。患者さんと向き合いながら心の触れ合いをしながらの看護を思い描いていた私はルーチンだけで精一杯で全然動けない自分を責め理想と現実とのギャプに胸を痛め心が疲れてしまいました。
  
病院で休憩の時に聞こえてくるのは、患者さんやその家族にたいする愚痴。
「本当にそうなのだろうか?その人がこういう反応をするには背景があるのではないか?」というモヤモヤとした気持ちがあり違和感をおぼえました。
その時の唯一の癒しは残業が終わって「眠れない」と訴えてくる患者さんのベッドサイドにいってゆっくり話をする事でした。

その頃くらいに1度目の結婚をします。
そして一般科は半年程でうつを理由に退職。絶対に自分で治すと内服は使用せずにいました。

しばらくしてから精神科の病院へ就職。全く未知の世界。はじめは対応に困りました。
でも精神科では彼らが心のバランスを崩すにも必ずその背景がある。私達には彼らの幻覚や幻聴は目にうつるものでは無いから分からないけど、実際にそれを経験している彼らはとても辛いという事。彼らに起きていることを否定するわけでなく,肯定するわけでもなく、寄り添うという事のベースを学びました。

ただ、その頃の私は自分の心が癒されていませんでした。
結婚して幸せなはずなのに常に孤独を感じていました。
「なんで結婚して二人になったはずなのにこんなに孤独なのだろうか」と他に安定を求めたりしていました。
そもそも結婚した時も自分が背負っていた家族の事などが「この人と一緒になれば幸せになれるはず」との思いで結婚しました。
それであたかも夫が悪いかのようにして逃げるように彼の元を去り離婚しました。

離婚後付き合った人とすぐに妊娠。結婚する事になりました。
結婚生活は本当に大変でした。自分の仕事、夫の仕事の手伝い、家事や週末・長期休みは夫の連れ子の面倒をみたり。義母の家の掃除など毎日自分の休む暇など無いくらいでした。
自分で何かをやろうという意思が強い夫だったので、自分で起業するだのなんだので私の名義で借金していました。借金はふくれあがるばかりで収入はほとんど入らず。私が働いたお給料もそのまま借金返済に流れるような状態でした。

家賃や電気、ガスを払う事もままならず。ガスが止められる事も度々あり、その時赤ちゃん  だった娘のお風呂をカセットコンロでお湯をわかしていれていました。

しかも夫と元妻は共依存。私は子供にとっては離婚しても親がいがみ合うよりはいい形で付合っていけたらという思いがあったので,元妻とその彼氏も家に呼んで一緒に食事をしたりとかもしていました。それは全然苦痛ではないのですが、何かあった時に夫がすぐ頼るのは元妻。「それっておかしいんじゃない?」って事を話しても「お前は元妻を否定している」と言って私の話を全然聞き入れてもらえませんでした。

  
「もうだめだ!限界」結婚して今まで住んでいた地から遠く離れ、そこで友達もなく誰にも話せず。これ以上親に心配かけるわけにはいかないと親にも話せず・・・
でもこれ以上この人と一緒にいては子供を養っていけないと思い離婚を決意。でも彼の事を  大嫌いな訳ではありませんでした。

離婚してすぐに夫は10代の子連れの彼女と家族の家だったマンションで半同棲していました。「娘が父に会いたい時に娘の帰る場所は無くなってしまったな」と思いました。
まだ私は元夫が好きな気持ちがあったので私も震える程のショックでした。
その悲しみは怒りとなり元夫に大して「早く死ねばいいのに」と思う日々。
そんな時に元夫との間に二人目の子供を妊娠している事に気づきました。

「え?嘘でしょう?これからやっと娘と二人で生活を建て直していけると思ったのに。どうしよう?お金も無いし。一人で出産となったら産後しばらくは働けない。無理だよ~」
正直「おろす」という事もよぎりました。
でも私はおろす事を選択できず、一人で出産する覚悟を決めました。

幸い当時市役所で臨時の仕事をしていたので、色々な情報を集めたりしながら動きました。
  
当時娘は3歳。3歳の子供を連れて、うちの母も頼りにはならない。入院も娘を連れての入院になるかもしれない。ならせめて、穏やかな出産がしたいとヒプノバースという催眠を使って女性が本来もっている幸せな出産をする能力を引き出すというものに関心を持ちました。そこで宮崎ますみさんのヒプノ赤ちゃんにたどりついたのですが、沖縄でそれをやっているところが無くますみさんが出している妊婦の為のリラクゼーションCDを購入し毎日聞いていました。

その頃に赤ちゃんと胎話できる人がいると胎話士のMIKIMIKIさんをご紹介いただきました。  彼女の講座を受ける事を決意。自分の中にたまっていたものが解放されていきました。
全ては自分が選んで招いてきた事。
そのどれもが意味のある事で必然な出来事である事に気づかされました。

それをきっかけに胎児にも意思がある事を学び、お腹の赤ちゃんとのコミュニケーションを  とる事の重要性などを感じるようになりました。

そしていよいよ出産。出産だけでも沢山話せるので詳しくは出産日記1と出産日記2出産日記3をお読み下さい。

一人での出産だったのですが、沢山の奇跡と人に恵まれて最高に幸せな出産を経験しました。本当に生まれるという時の陣痛以外は生理痛程度の痛みで、陣痛がきた時は赤ちゃんも一生懸命頭を押し付けて産道を通ってくるイメージをしながら一緒になって出産する事を意識しました。なので出て来た時には「あぁ、気持ちよかった~」と自然に口から出てきました。

幸せな出産をしてからも、生活の不安はありました。本当にお金の無い生活だったので「明日何を食べよう?」という世界でした。友人からお下がりをいただいたりしながら何とか切り抜けてきました。でもその事で、自分からSOSを出す事の大切さや、周りで支えてくれる仲間の温かさを知りました。

私は一人じゃない。そう思えるようになりました。
それから息子が生後5ヶ月になる頃から仕事復帰。でもその時に選んだのはナースへの復帰ではありませんでした。

子育てや教育を根本から見直したいという思いで理念型のフリースクールでスタッフとして働きはじめました。

その頃くらいから色々なセミナーにも参加し、自分自身と向き合う事にお金と時間を使ってきました。子供達を預けてセミナーに参加する事も多かったので寂しい思いもさせてしまったと思います。
でも、今はそのおかげで沢山の仲間や知識などにも巡り会えて自分の財産になっています。

今は自分が学んできたことをアウトプットするようになりました。
こうして今の自分があるのは全ての出来事があったおかげだと心から感じるまでになりました。

自分でも人とのご縁のおかげで物事を見る角度を変えるだけでこんなに幸せになれた。
みんな誰でも心からの幸せを感じる事ができる。その方法を知らないだけだったりする。
生きてりゃ人生色んな事がある。辛い事も苦しい事も。そのどれもが自分の人生を豊かにしてくれる。そう思えるようになったら人生が楽しくて。
これからももっと自分の人生を楽しんでいきたい。自分が本当に楽しいと思える事をしていきたいという気持ちでいます。

どのいのちも素晴らしい。それぞれが自分らしく輝いていけるような社会になればという思いで妊活関連のカウンセリングやセラピスト業、子育てや教育相談、いのちの大切さや自然なお産について学ぶ「バースカフェ」というイベントを主催させていただいてます。


   ☆私が出演させていただいたオキラジの「ほめ愛ラジオ」の様子はコチラです