神父さま




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ごきげんよう!
真樹です





今日は朝から
学校の集金に行ってきました

そのあとは

もう3年続いている
聖書のお勉強の日です


私はクリスチャンではありませんが
もう8年
キリスト教系の幼稚園と
ご縁があることから
聖書について
学ばせていただいております


始めは抵抗のあった聖書

しかし
日々の子どもたちの成長と学び
そして
そこに関わる先生方の
子どもたちとの関わり方を
目の当たりにすればするほど

このキリスト教
というか
聖書
という1冊の本に
興味がわいたのです


私が
「禅」に興味を持つようになったのには

間違いなく

この聖書の影響があります



そんな訳で
今日も聖書という
世界で一番売れている書物を
紐解いてみました


聖書は確かに
智慧の宝庫です

これは間違いないでしょう


ただ
読み方一つで
全く違うものになってしまう
という
一面も持ち合わせています


もしかしたら
それは他の宗教の教えも
そうなんじゃないかと
思います



ここで聖書の智慧については
語りませんが


今日
聖書の中の名わき役と題して

テモテとエパフロディトの章を
学んでいた時

先生の解説の中で


パウロは
決して良い人生を送っていなかった
(悪いことをしていたという意味)

ただ、イエスに出会い

「こんな私でさえ、イエスはお許しになった」

その時の感動が
パウロをキリスト教へと導いた

そうおっしゃいました


しかし私は

そこに大きなポイントがあるように感じました


「イエス」に許される
「神」に許される

という事を
非常に重要視するキリスト教
(他の宗教もそうなのでしょう)

この思考(信仰)があるうちは

常に
誰かに許される
ということを基準に
生きなければなりません


自分以外の何かに認められ
許されなければ
胸を張って存在できない

という
制限にはならないだろうか?と


しつこいようですが

私は
聖書は素晴らしい智慧の宝庫だと
思っています


だからこそ
学んでいるわけですが


しばしば
私にとって

その解釈は
おそらくイエス・キリストが
伝えたかった解釈じゃないと思う

と
思う事があります


それに気付けるようになったのは
「禅」の教えのおかげです


どんな宗教も
その宗教の本質は
同じところにたどり着くと
私は信じています

真理はひとつだと


だからこそ
こうして
2つの宗教が混ざり合った時に

今まで見失ってきた
本当の意味に
たどり着けるのだと
思うのです


おかげさまで
今日も豊かな時間を
過ごさせていただきました

ありがとうございました



悟り系スピリチュアルコンサルタント
真樹プロヂュース☆
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