祇園祭神幸列を先導する稚児が奉持する駒頭(駒形)は、応仁の乱の後その占有権をめぐって長く争われたのですが、現代ならレプリカというか代用品が登場していたかもしれません。当時はそのようなことを考えた人はいなかったらしく、あくまでも実物の占有権が争われたのでした。

 駒形には祭神(牛頭天王—素戔嗚尊)の荒魂が宿っていると信じられていたので、信仰上これは当然のことだったのでしょう。それにしては質草にしたり、借金のカタにとったりというのは不謹慎かもしれませんが・・・。まあ、戦乱の世を生き延びるためには仕方がなかったのでしょうね。

 よく言われる戯言で「京都で、『この前の戦』といえば応仁の乱のこと」というのがありますが、戦乱の中でとにかく生きていくために大事なものを質草にしていたというような当時の京都人のエピソードにふれると、応仁の乱が何か身近なものに感じられるのは私だけでしょうか?

 

 さて、駒形のその後ですが、史料上次に確認できるのは、1694(元禄7)年です。

 この前に確認できる史料は1522(永正18)年ー前回参照ーですから、170年ほどの空白期があるのですね。

 元禄7年の史料とは、久世駒形神人・松井五左衛門証文写という文書です(「八坂神社文書上」329)。

 これは当時神職関係の免許を統括していた吉田家から許状を受けたことに対し、松井五左衛門が謹んで職務を果たすという請書を出したものです。

 彼の肩書が「久世駒形神人」になっていることに注目してください。

 つまり、この頃には駒形は久世から来るようになっていたのです。

 江戸初期の京都案内書である「莵芸泥赴(つぎねふ)」(1684・貞亨元年刊)にも、祇園祭の駒形稚児は久世から来ると記されています。

 ただ、久世のどこから?となると、今一つ明らかではありません。

 現在は綾戸國中神社からですが、このお社は元々別の社だった綾戸社と國中社が合体したもので、それは何時なのかはっきりしていないのです。

 

               ↓ 現在の綾戸國中神社本殿

 

 なお、綾戸國中神社になったあとも、移動を余儀なくされています。

 これは比較的最近のことで、東海道新幹線がちょうど綾戸國中神社の境内を横切ることになり、境内全体を少し東側に移転したのです。

 

        ↑ 綾戸國中神社境内の真横を通る東海道新幹線高架

 

 ところで、駒形の所在に関する史料の不在期に、何があったのでしょうか?

 これについては、空白を埋める史料が発見されるまでは推察するしかありません。

 逆にいえば、どのようにも推察できるということです。

 特に、私のようなこの分野の専門家でない者は、気楽に推理が楽しめるというものです。

 ただし荒唐無稽な推理をしても馬鹿にされるだけなので、この間の出来事で、本件に関係がありそうなことをよく整理しておく必要があります。

 この間、織田信長が入京し、次いで足利義昭が追放されて室町幕府が滅び、信長も不慮の死をとげて豊臣秀吉が天下人になりました。

 彼は、京の街の大改造をしますが、その一環として祇園社御旅所を現在の場所(四条寺町)に統合しました。それ以前にあった二箇所の御旅所のうち、大政所御旅所は当時火事で焼けて未再建だったのですが、少将井御旅所のほうは統廃合されたのです。

 では、少将井駒形神人はどこへ行ったのでしょうか?

 私は、彼らが本拠地を久世に移動し、久世駒形神人になったのではないかと推測します。

 この仮説の前提として、駒形の占有権が少将井駒形神人に戻っていたことが必須ですが、これはあり得ないことではないと思います。

 駒形は、一時祇園執行御坊にあったことは史料上確かですが、その後また久世に移動しているので、この間どのような占有権と所在の移動があったのかが問題です。

 お金がからんでいるかもしれませんが、祇園祭の安定的な執行という宗教上の理由からいえば、従来からの慣行を引き継ぐという継続性も重視されたでしょう。

 従来からの慣行をもっとも知悉しているのは少将井駒形神人なので、彼らが駒形の占有権を取戻し、かつ少将井御旅所の廃絶という事態のなかで、本拠地を久世に移したとしても不思議ではないと思います。

 つまり、久世駒形神人の前身は少将井駒形神人ではないか?というのが私の推測なのです。

 今回はこのあたりで。