屋久島・口永良部島行きの話を4回ほど続け、その間「平坦な坂」は中断していましたが、再開したいと思います。

 話がどこまで行っていたか、少しおさらいをしておきます。

 いま話の舞台になっている「平坦な坂」は、桂川にかかる久世橋の西・久世(くぜ)一帯です。このあたりは京都と西国をむすぶ旧西国街道の交通の要地であり、京都とその外部の境界=坂としての歴史を刻んできた土地です。

 このあたりの境界性を示す事例として、祇園祭の神幸祭・還幸祭に奉仕する久世駒形稚児の話の途中で中断していたと思います。

 久世駒形稚児が神輿列を馬上で先導するとき、首にかけて奉持する駒形は、現在は上久世にある綾戸國中神社(あやとくなかじんじゃ)のご神体として、平素は同社に祀られていますが、それはおそらく(史料がないので確定できないのですが)江戸時代初期か、あるいはもう少し前からのことで、それ以前は別の場所にありました。

 その場所は何度か変遷しましたが、元々は少将井御旅所にありました。祇園社のこの御旅所は、今でいえば車屋町通夷川上がる付近にあり(現在「少将井御旅町」の町名が残っている)そこにいた少将井駒形神人が管理していたことが史料上明らかです。

 当時は、駒頭(こまがしら)と呼ばれていて、祇園祭に稚児がこれを身につけて奉仕するのはこの頃から行われていたようです。

 また、少将井駒形神人の頭(かしら)は少将井狛太夫(こまたゆう)と称していました。

 「この頃」とはいつ頃のことかというと、応仁の乱(1467~1477)の前後のことです。

 応仁の乱は京都が主戦場になり、京の街はほぼ焼野原になったのですから、お祭りどころではなく、祇園祭も1467(応仁元)年から1499(明応8)年まで三十年ちょっと中断されました。

 1500(明応9)年にようやく再開されるのですが、このとき慌てたのが少将井狛太夫でした。

 なぜかというと、駒頭が手元になかったのです!

 なぜなかったのか?

 なんと、借金の質草として、御霊社東女坊の神子(巫女)奥女方にとられていたのです。

 御霊社とは、疫病など災厄をもたらすのは恨みを残して死んだ怨霊の祟りだとして、早良親王(のち崇道天皇と追称)、菅原道真らの霊を慰めるため祭神として祀った社で、現在は上御霊神社(上御霊前通烏丸東)と下御霊神社(寺町通丸太町下る)に分かれていますが、下御霊神社は二度ほど移転していて、元々両社は現在の上御霊神社の近くにあったようです。

 

            ↓ 現在の上御霊神社

 

 元の御霊神社は広大な神域をもち、御霊の杜という深い緑のなかにありました。

 現在も御霊の杜の面影は少し残っています。

 

       ↑ 上御霊神社の森。かつてはこの何倍もの広大な森だった。

 

 1467年(応仁元年)、室町幕府の統制力が弱まるなかで、畠山政長と義就(よしなり)が畠山本家の相続をめぐって争い、政長方には細川勝元、義就方には山名宗全という有力大名がついて当時の有力者の勢力が二分されつつあったとき、政長が陣を敷いた御霊の杜を義就方が攻撃して始まったのが御霊合戦ーすなわち応仁の乱の緒戦です。

 

              ↓ 応仁の乱勃発地 の石柱

 

 御霊社はもちろん応仁の乱で焼けたのですが、乱が収まったあとまもなく再建され、祇園祭が再開される1499年にはすでに巫女たちの活動の本拠(東女坊)があったようです。

 そこのボスである奥女は副業?として金融業もしていて、少将井狛太夫に金を貸し、そのカタとして駒頭をとっていたということです。

 話がまた御霊社や応仁の乱にそれてしまいました。

 この続きは次回に回したいと思います。