私たちが生きている現代は、昔は自明のものだった境界が不明瞭になり、消滅しつつある時代だと、かつて赤坂憲雄氏は記しました(「境界/生と死の風景を歩く」)。

 私もそうだと思っていました。

 その消滅しつつある境界を実際に見てみようと思い、京都の坂を歩き始めたのです。

 最初に意識的に歩いたのは清水坂でした。

 そこには六道の辻や六道珍皇寺、西福寺、幽霊子育て飴屋など、昔からの「この世とあの世の境界」スポットが点在しているのですが、それらは「過去の遺物」にはなっていませんでした。八月のお盆前には「お精霊(しょうらい)迎え」に来た人たちが迎え鐘をつくのに列をつくっていますし、水子供養地蔵の前には子ども用の可愛い水飲みカップが所狭しと並んでいます。この界隈は、今も生の世界と死の世界の境界であり続けていました。

 

 

 何より、私が考えを変えるきっかけになったのは、弓矢町での武具展示について調べたことでした。

 

 

 これは清水坂その10 で詳しく紹介しましたが、弓矢町を本拠地にしていた犬神人が祇園祭神幸列を先導していた故事を今に引き継いでいるのです。

 いまの弓矢町の住人は、昔からこの地に代々住んでいる人もおられるかもしれませんが、色々なところから転居してきた人も多いでしょう。ということは、犬神人の故事を今に引き継ぐというのは、血縁より地縁がそうさせているのだと思います。

 それから、私は武具出し作業を手伝いに来ていた「まか通」のメンバーと出会ったのですが、彼らは京都の大学でアートを学んでいる若者です。

 「まか通」というプロジェクトに参加することによって彼らは弓矢町や六原学区とのつながりができ、中にはここに住んで町内会の会合に出席する者まで出てきたのです。

 そして彼らの活動の中から、昔からこのあたりの民家にあった鍾馗さんが見直され、ついには地域の神社の中に摂社として鍾馗神社が創設されるまでに物事が発展するのです。

 これは、かつて清水坂(あるいは単に「坂」)と呼ばれていた地域が、今もその境界性を失なってはいないということではないかと私は思います。

 かつて柳田國男や折口信夫ら日本民俗学の泰斗が、坂(サカ)に強い関心を持ったのは、そこが異なる文化圏・生活圏が接触して多様な文化が生成する場だったからです。

 山口昌男は、『文化と両義性』(1975)のなかで、次のように述べています。

 

  境界は多義的であるゆえ、そこには日常生活のなかでは位置を与えられないイメージが立ち現れる可能性を持つ。二つの矛盾するものが同時に現れることができる。そこでは、イメージおよび象徴が、言葉になる以前に絶えず立ち現われ、増殖し、新しい統合をとげる。

 

 サカ=境界は、多義的な場であるが故に、文化的には非常にアクティブな場だと言っているのです。

 このような坂の伝統は、そう簡単に廃れるものではないということですね。

 それから、この地には差別の歴史が刻まれていることについても記しました。これは、中世の坂の者が、死穢を扱う者として「非人」身分とされていたこと、「物吉村」に集住していた癩者も、近世まで「非人」身分であったことなどを指します。

 都市社会学者のリム・ボン氏は、都市におけるマイノリティーコミュニティの「影の文化」を積極的に評価し、「光の文化」へその価値を転換する努力が必要ではないかと指摘しています。なぜなら、世界の歴史都市には必ず「光」と「影」の相互依存関係があり、表舞台に登場するマジョリティの文化だけ見ていたのでは本当のことは分からない。「影」の文化であるマイノリティの文化にも光をあて、マジョリティの文化との緊張関係を描き出すことによって、初めて歴史都市・京都の未来像が構想できる、と述べています。(リム・ボン『歴史都市京都の超再生』日本評論社 2012)

 私は清水坂を歩き、そこでの人々の活動に出会うなかで、境界としての歴史を刻んできた坂は今も生きていて、時々刻々変化していることに気づきました。そして境界=坂が活性化することによって、中心部も刺激を受け、新しい様相を持って再生産されていくのではないかと考えました。

 そこで、他の坂も同じような視点で見てみようと思ったのです。

 ここからは次回に回したいと思います。ではまた。