あのひとが逝って、今日で1年経ちます。

一周忌法要は後日になりますが、あちらの世界に旅立った人も遺族も、そろそろ心の整理をつけなくてはなりません。

亡くなった人がこの世と家族に未練を残さずに、光の世界に上がっていくことを切に願います。

この1年間は、残された家族が後処理に追われることで、悲しみという感情の嵐から一時逃れる時間でもあるのかも知れません。


家族を失うことの悲しみは、残された者のエゴによるところが大きいのではないかと思います。(大人の場合)

これからどう生活していけばいいの!?という不安。

あの人が一人で担っていてくれた重責をどう引き継げばいいのか、丸投げして楽に幸せに過ごしていたことへの後悔と、いざ引き受けることへの恐怖…。

それらを全部受け止めた時、悲しみが純粋な家族愛に戻るのだろうと思います。


親子であっても夫婦であっても、愛とエゴは隣り合わせで厄介なもの。本当に【無条件の愛】で相手に向かっているか、失ったあとに初めて考えるのでは遅いのですけれどね。

失う危機に面した時、今一度考えてみると良いでしょう。

亡き人はこんな気付きも与えてくれる。亡くなった後にも残してくれる愛って尊い…。


この1年の間に、私は沢山の【失う】ことを体験しました。


家族の中心だった人。

可愛いを体現した小さな命も。

そして、大切だった絆を1つ。

大事にしていた仕事。仕事の場。

ライフワークに伴うコミュニティ。

安心、安全。

生活の基盤。

あらゆるものが雪崩のように失われ、脅しやストーキングという恐怖にも遭いました。

大事にしてきたこのブログも監視され、脅迫の元になってしまったので、縮小の一途を辿っています。


命も物事も失うことは悲しいですが、

限りある命はまだ諦めがつきます。

自分の行いの結果に失ったものは、反省の後に経験としてその後の生き方の糧になります。

身に覚えのない因縁による不幸を克服する術の正解は知りませんが、自分の出来ることを他人に施して生きていくしかないのでは?と思っています。


一番辛いのは生き別れですが、これも『時間』が薄めてくれます。

「思いを残したまま別れるくらいなら、いっそその手で殺して欲しい!」と願ったことがありました。

でもそんな激しい嘆き悲しみすら、時間がゆっくりと作用してくれます。己の執着を手放しさえすれば。


何を失っても、人は生きて行かなければなりません。

自ら死を選びたくなるほどの悲しみがあっても、生まれてきた時に決めてきた寿命が尽きるまで生きなくてはなりません。

そのことを知っているから、人から何を言われても、どう思われても、自分の『今』という一瞬を刻んで行くのです。


この世に生まれて来たこと、

この人生、この時代、この家族、出会う人を決めたのは自分なのです。

信じたくない、悔しいけど、この世はどうもそういうことらしいです。なので、生きましょう。

学び切ったら感謝して手放せば、次に進めます。

手放しは自分への、他者への最大の愛なのだから。険しいけれど。経験値は凄く高い。

…と、自分に言い聞かせています。


もしも今苦しんている人がいたら、私の戯言が少しは役に立つかも知れないと思い、つらつらと書き綴ってみました。


私も淡々と、なんとか頑張って生きています。

私という存在が気に障る方がいたらごめんなさい。無傷な人生ではありません。それでも私は生きています。


久しぶりに長い文章を綴りました。

お付き合いくださってありがとうございます。