昨日生まれて初めて 教会のクリスマス礼拝に参加しました。
クワイアとして 3曲賛美しました。
1曲目は 大好きな『主ミナ』でした![]()
はじまりの聖書のフレーズのあとに歌う 『主ミナ』
(っどこの章を読まれたのか、まったく覚えてないのですが・・・
)
なんか いつもとは違う感覚がありました![]()
(魂のドコカで 理解してました☆)
J先生のお話は とても好きでして、なんというか、
スッ と 腑におちる。ツボにあたるんです。
ヨハネ 3章16節から『生きる』ってお話がありました☆
大切な方が なくなったときに この胸に ポッカリ 大きな穴が開いて、
それを 埋めようとか 思わなくてよくて・・。
ただ その穴は その人がいたという証でいいのじゃないでしょうか
J先生が ご自身の体験談を話して下さいました。
その方が 亡くなる直前に『もっと 生きたい』と語られたと聞いた時、
私は骨髄ガンで亡くなった 愛するおじいちゃんのことを思い出しました。
人に、決して弱音を見せなかったおじいちゃんが、
集中治療室に入る数日前に、薬を飲んでも痛みが引かなかった時
一度だけ、「死にたい」と言いました。
家族も看護婦さんも。おじいちゃんのその一言には
何も返事をすることができませんでした。
そして、本当にいよいよ、集中治療室に入る直前ギリギリまで
東京から向かう母の到着を待っていたおじいちゃんの放った言葉で聞いたのは
『生きたい』でした。
私はこの時は専門学生だったので、春休みを使って
おじいちゃんのそばにできるだけ居たいと、
母の実家に行き、毎日小松と金沢の間を行ったりきたりしていました。
祖父が他界してからしばらくは、悲しみのあまり食事も
あまり取れずにいたような。。。
いまも そのことを 思い出すと 涙があふれてきます。
『大切な人の死』
その穴は本当に大きかったな、って思うし、いまも、その穴はあいたまんまなんですよね。
それは おじいちゃんの病気と葛藤している事実を
目の当たりにしていたことによって、あいた穴でもありますが、
おじいちゃんが存在していた、『その人が存在していた証』なんだ。
おじいちゃんのいるスペースが常に、私のナカにあるんだ!とシックリきました。
その 悲しみをなくさなくても
ただ あるがままにしてれば いいんだよ、って
なんか かみさまに 言われてるみたいでした。
ゲストのMさんが God’sLoves Now ~主の愛が今~
を歌ってくださり、
だからこそ JESUSの誕生・磔(尊い愛する人の死)があるのか~
と感じたりしたのでありました。
私の人生に起きているすべてのことは、私にとっては、
どんなことも愛の記憶として必然なんだなぁ。
