イザベラ・ディオニシオ著の『悩んでもがいて、作家になった彼女たち』を読んで以来、大変気になっていた本書を遂に読み終えた。

 

流れる  (著)幸田文

 

著者・幸田文が芸者置屋で住み込み女中として働いた経験から描いた作品ということで、内情が詳しくないとこういうこと書けないだろう…と感心しつつ読んだ。

 

戦後まもない頃の物語。

主人公・梨花は、寮母、犬屋の女中などを経験した後、芸者置屋で働くことにした。

その芸者置屋の経営状況は思わしくない様子。

その傾いた置屋で起こる様々な事件が描かれていく。

 

物語は、とても面白い。引き込まれる。

 

しかし、読むのに大変時間がかかった。理由は、使われている言葉である。

その頃は一般的だったのかも知れないが、現代は馴染みのない漢字が使われていたりして、見ると引っかかってしまった。

 

例えば…

「雇傭関係」ふりがながあったので「雇用関係」だなと分かったが、もしかして深い意味があるのだろうかと、しばし考えた。

 

「不断着」「不断履き」など。今なら「普段着」「普段履き」が一般的だと思う。目にするたびに引っかかってしまった。

 

「お対手する」は、辞書を引くと「対手」は「たいしゅ」としか読み方が書いていない。意味は相手、対戦する相手のこと。つまり、これは「おあいてする」と読ませるのだろうか。

 

この他、「註文」(注文)、「花々しい」(華々しい)など。まあ、考えたら分かるのだが…。

 

意味が分からなくて想像もつかなかったので辞書を引いたのは、

「なんどり」(物やわらかなさま)、履物の「はり柾」(柾目がきれいに通った薄い木材を貼り付けてつくった下駄らしい)など。

 

主人公・梨花は、「しろうと」の中年の後家という設定であるが、

芸者置屋で働くことを決める前、2日間のお試し就労をした後、

 

(前略)この土地の何に心惹かれるのかははっきり云えないが、とにかくこの二日間の豊富さ、――めまぐるしく知ったいろんなこと、いろんないきさつ、豊富と云う以外云いようのない二日である。その豊富さは、つまりここの世界の狭さということであり、その狭さがおもしろい。狭いからすぐ底を浚って知りつくせそうなのである。知りつくした上に安心がありそうな希望が湧いているのである。しろうとの世界は退屈で広すぎる。広すぎて不安である。

 

と考えて置屋で働くことを決める。

この鋭い発想はなんだろう。

 

主人公は、置屋での様々なシーンでクールに対応したり、キレのある行動をしたりする。

物語を読み進めて行くと、以前は奥様と呼ばれる立場だったようだ。ほう。

他家からスカウトを受けたり、周囲の人々からも一目置かれながら、置屋の女中を全うしていく。

 

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ようやく「すや」の栗きんとんを求めることができた!

 

 

喜びの記念撮影である。

 

 

良いねえ。

 

 

「すや」の栗きんとんは、大変バランスのとれたお品であると思う。

クリーミーすぎず、適度なほっくりさ。

そして粒が細かく入っているのも好み。

 

 

秋の気分な、菅野一美氏の黒掻き落としの器で。