今日の心屋さんのブログ、なかなか面白かったです。
特に気に入ったのがタイトルにもさせていただいた言葉。
今日の記事の最後に登場します。
これ、国レベルの話しじゃなくても思うことがあるんですよ。
あなたにとっての「非常識」はあなただけのものでしかなくて絶対的な真理じゃないのに、そこにこだわるからしんどくなるんだよ、って。
もちろん逆もしかりです。ただ、私はそういう意味での「発想の転換」は、もしかすると人より多くしてきたかもしれません。
こういうときはこうするもの! という 「べき」 にとらわれていると気持ちがいいこともあるでしょうけれど(スッキリ感はあると思います)、その「べき」に「へ?」という反応をする人が出てくると途端に苦しくなる。で、表情が一変する。すごく険しくなる。
そのたびに思うんです。
あなたの「べき」は認めるよ。
その「べき」を守ってきたから今日まで切り抜けて来れた場面がたくさんあったのもわかる。
でもそれは「自分の」「べき」でしかなくて、所変わればべきも変わるし、その「べき」に「へ?」となる人もいるんだよね。
だって背負ってきてるもの、みんな違うし。
違うだけなんだよ。
目の前の人間と自分が違うだけ。
それを認めて受け入れたら楽になるのに。
って。
最近感じた「べき」は、
車を運転していて道を譲ってもらったら「ありがとう」の合図を送るのは当たり前!
というもの。
確かに、お礼の合図があれば嬉しいし、気持ちはいいです。
でも私は合図がなくてもほとんど気になりません。
今はわかりませんが、私が実家で過ごしていた頃(ン十年前)、その地域では「お互い様なんだからいちいち礼を言う必要はない」という風潮でした。
だから譲ってもらっても「当たり前」のように入っていく。当然お礼の合図はなし。
代わりに逆の時も相手に合図を求めたりしません。
前に譲ってもらったことがあるから、今度は譲る。ザッツ・オール!です。
ところがそれが「非常識きわまりない」「許されざる行為」としか思えない地域もあるわけで(その地域がおかしいということではありません)、その地域に住み慣れた人が私の実家の地域に来るといちいち腹が立って仕方がないわけです。あるいは私の話しを聞くだけで不愉快になり、憮然とした表情になったりします。
どちらが正しいということではなく、単に「異なる」だけなのですが、自分の「べき」を絶対基準にしているからものすごく苦しい。
私は結婚してそれまで縁もゆかりもなかった地域に移り住みました。
当然ながら「えええっ!」と思うようなこともいっぱい経験しましたが、それをやり過ごすには「へぇ、ここではこうなんだーーー」が必要でした。で、常にそう受け取るように心がけていました。
でも逆はなくて(つまり、私に対しての「へぇ、そうなんだーーー」がなくて)疲れ切ってしまいましたが。。。
マインド優勢だったことや、ガス抜きの場がなかったことも大きいですが、意識的にでも「へぇ、ここではこうなんだーーー」と受け取る努力をしなければもっと早く心が折れていたでしょう。
「別の国では 腹が立たなかったりするモノでさ( ̄▽ ̄)」 とやり過ごすのが「正しい対処法」ととらえると新たな苦しみが生まれるのは言うまでもありません。
別の国の別の反応に嫌悪感や拒否感を抱く自分を否定する必要はまったくありませんが、そういう緩やかな受け入れをするだけで気持ちが軽くなるんじゃないのかな、と思います。