ただし、それを以て「最近、子供の虐待が増えている」と考えるのは早計かもしれない。以前は「親は子供を虐待することがある」という認識があまりなかっただけで、最近は「子供の虐待」が意識されるようになり、報道の量が増えているだけということも考えられるからだ。
ただし、以前は親の虐待にそれなりの大きなストッパーがあった。おそらくそのことは虐待防止に役立っていたはずだ。
ストッパーには大きく2つある。1つめは親の親、つまり祖父と祖母の目である。
核家族化が一般的になる以前、祖父母が同居するのが普通だった頃は、祖父母が子育ての監視の目となっていた。こういった状況では虐待は起こりにくい。また、同居でなく近くに住んでいるだけでも、子供の様子を観察することができる。それだけに子供の変化には気づきやすくなり、事前に虐待を抑制しやすい。
もう1つのストッパーは近隣コミュニティの介入である。
近隣関係が密だと、一般的な家庭近隣の交流がさかんで、親子関係にも他人が介入しやすかった。実際に問題介入するまで至らなくても、近隣の目があると意識するだけで、虐待などの大きなことは起こりにくい。地方によってはいまだに近隣関係が密なところがあるが、そういったところでは子育てにおいて極端なことは起こりにくい。
現在は核家族が一般的であり、とくに都市部においてはコミュニティが極端に希薄化している。とくに賃貸アパートやマンション住まいであれば顕著だろう。
家庭内でいったん虐待が起こってしまうと、ストッパーがないために、虐待が日常化しやすい。だからこそ、子供が極端な衰弱まで追いこまれたり、ひどい場合は子供を殺してしまうことまで起こって、「ニュース沙汰」となりやすい。そのぶん、報道される機会も増える。
では、親の虐待はなぜこう頻発するのだろうか。
虐待をおこなった親たちの言い分では、私の知る限り、自分の親から虐待を受けた経験がある者が圧倒的に多い。
これは考えればごく自然なことだ。幼児体験はその後の人生に大きな影響を与え、親の価値観は子供に受け継がれ、行動パターンも反復されがちだから。もちろんこれは負の影響だけではなく、たとえば、優しい両親にたっぷりの愛情を注ぎ込まれた子供が、親になっていきなり虐待を始めるというのは考えにくい。愛情を持って育てられれば自分が親になっても愛情を持って子供を育てようとするものだ。
虐待されて育てば、自分が親になってからも虐待する傾向が生じても不思議ではない。
だが、これはあくまで傾向の話である。虐待されて育った者が親になったからと言って、もちろんみんながみんな自分の子供を虐待するはずがない。たしかに幼い頃に虐待されると、多くの者はその辛さを受けとめることができず、「きつく当たる=愛情表現」だといったねじれた読み換えがおこなわれ、家族関係に不都合が起こりがちだ。この場合だと、愛情を注ぐべき場面で、虐待で愛情を示したくなるという厄介な心の癖が出来上がってしまう。
だが、この心の癖は修正可能である。できるだけ早い時期がいいのだが、大人になってからであってもそれを修正し、虐待に向かいがちな心の癖を矯正するのはじゅうぶん可能である。そこに立ち向かう知性と意志、そして周囲の協力があるかどうかだ。
ところで、最近、虐待の当事者が「しつけのつもりでやった」と弁解するのをよく目にする。虐待の内容からすれば「しつけ」とは程遠いとしか思えない。だが、厄介なことに、虐待した本人は本気でそう考えていることは決して珍しくはない。
しつけと虐待の境界は明確である。しつけは子供の将来のために悪い習慣を改めさせる、あるいは良い習慣を身につけさせることである。子供の立場から考えた行動だ。虐待には「子供の将来のため」などといった目的はなく、習慣的な加虐に過ぎない。しつけがいくら厳しくなっても、その精神性で虐待とは全く別物だ。
もちろん、しつけもエスカレートすれば加虐的になりうる。だが、我を忘れてそうなっているだけなので、しばらくすれば冷静さを取り戻して、ほとんどの場合行為はそこで止まり、子供の立場に立って修正が加えられる。
「ほとんどの場合」と限定したのは、修正が加えられることなく止まらないことがあるからだ。それが虐待の入り口である。
ごく希に、感受性というべき感情に欠け相手の痛みがわからない者がいる。そういった親が「絶対に許せない」という気持ちになれば、しつけのつもりがエスカレートして虐待になってしまうということはありうる。おそらく虐待の犯人たちが「しつけで」と弁解する場合の多くがこれに類することだと考えられる。
では、なぜ無力な子供に対して「絶対に許せない」などといった気持ちになるか。それは、おそらく子供の中に自分の見たくない部分が見えた場合が多いというのが私の考えだ。
たとえば、やたらと嘘をついてその場を逃れる癖があるが、それが本人には見えていないという者がいたとする。「本人には見えてない」と言われると不思議に思う人もいると思うが、欠点というものは多くの場合、その人は薄々はわかっていても、それを見たくないという気持ちが働くので、明確に意識できない。また、明確に意識できるくらいの欠点はたいした欠点ではないし、大きな欠点が意識できるのであればそのことで大いに悩むのが普通で、それはあくまでの自分だけの問題である。
問題は、自分の欠点は「見たくないので見えないことしている」という状態にある者が親になった場合だ。他人からその欠点を指摘されると、その人は大声でそれを否定し、相手を罵倒するとか、その場では一生恨んでやるくらいに憤るだろう。
もし、その欠点が子供にあったらどうなるか。おそらく「徹底的にそれを追い出したい」という気持ちになるはずだ。それが行動になれば、嘘をついたら殴るとか、折檻するなどの行動になりやすい。
子供が嘘をつくのは精神の発達に必要なごく自然なことだ。おとなが繰り返し嘘をつくのとは性質が違ったもので、精神の発展段階で論理性や行動の一貫性を獲得するための発展段階で必須の行為である。これを認めないのは、むしろその後の精神的な発達に悪影響があることすらある。
だが、そういった者にはそんな余裕はない。子供は親から殴られたくなくてできるだけ親の意図に従おうとするが、そこではどうしても嘘をつかざるを得ない。嘘をついたらまた殴られる。子供にとって袋小路だが、親にとっては「なぜこいつは何度言ってもわからないのだ!」といった気持ちになる。
だが、この場合、悪いのは100%親のほうだ。自分の醜さが認められなくて、それを子供に投影して、自己否定の代わりに子供を虐待しているのである。自分が子供だった時を美化し、その「悪」をまるで霊媒師が悪霊を追い出すかのように、暴力で追い出そうとする。
その親は子供と戦っているつもりで、実は自分と戦っているからだ。だが、子供をいくら虐待しようが、本人から欠点がなくなることなど起こるはずがなく、この戦い=虐待に出口はない。出口があるとすれば、親自身が変わることだが、感受性の欠けた親に、内省を期待するのは無理だろう。
親の虐待に絶対的な解決策はない。なんとか周囲の目で虐待にエスカレートする前に、その子を救い出すしかない。そのためには、祖父母やコミュニティに代わる介入の制度を作ることだろう。誰でも自分の子育てに口出しなどされたくないだろうが、そのおかげでどこかで虐待されている子供が救われるのなら、受け入れてもかまわないと考えてもらえると信じたい。

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