「反アイドル」としての菊池桃子 | 真面目に脱線話@リンガランド英語塾

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英語や芸能など、思いついたことを適当に書いていくという、そういうブログです。

メルマガにも書いたのだが、安倍改造内閣で新設された「一億総活躍担当大臣」という言葉に違和感をもった人は多かったのではないだろうか。私もその一人で、「なんでこんなわかりにくいポストを作る必要があるんだろう」と思った。



いや、政権がやろうとしていることはむろん理解できる。



現在、日本の官僚機構はセクショナリズムに陥っている。この場合のセクショナリズムとは、自分たちの担当と他人の担当をきっちり分けて、相互に情報を共有しないために、やることが重なったり、そもそも仕事を取り合ったりして、効率が落ちてしまうことだ(sectionalismをあえて日本語に訳せば「なわばり根性」が定番)。



これを防ぎたかったら、セクションをまたいで大きな権力を持つ優秀なリーダーを選んで、その人のもとに学際的に1つの大きな目標を向かうという方法が有効だ。この場合、「経済」とか「教育」など、どこかのセクションの得意分野を出したら、そのセクションが大きな顔をすることになり、目的達成の妨げになる。だからこそ、「一億総活躍担当大臣」などという曖昧な名称にしたのだろう。



そういった意図はわかるにしても、それにしても「一億総活躍担当大臣」の名称はひどいと言わざるを得ない。「一億玉砕」を連想した人も少なくないはずだ。



英語では何と言うのだろうと思っていたら、すぐに発表があった。Minister in Charge of Promoting Dynamic Engagement of All Citizensだとか。無理に訳すなら、「全市民積極的社会参加促進担当大臣」とでもなる。英語では日本語のようにごまかしが効かないから、英語にするとむしろもっとわかりにくくなる。



だが、そんな折、一億総活躍国民会議の委員の中に救世主が現れた。民間議員として選ばれた菊池桃子さんだ。



私たちの世代を代表するスーパーアイドル、そう、あの菊池桃子さんだ。



菊池さんはこの「一億総活躍社会」に対して、「ソーシャル・インクルージョンにしらたらどうか」と提案したとか。安倍首相も納得の見事さ。きっと最初から菊池さんに相談すればよかった」と思ったに違いない。・・・かもしれない。





それはともかく、この新聞記事を読んで本当に感心してしまった。政権がやろうとしていることは、まさに「ソーシャル・インクルージョン」という言葉に尽きているからである。私はいかに菊池桃子というアイドル出身の、・・・え、なんと言うべきか、とにかく菊池さんの頭の良さをどれだけ過小評価していたかに思いを馳せた。



いや、ほとんど興味を持ってこなかったというべきだったかもしれない。



蛇足になるだろうが、social inclusionという言葉はフランスの社会学から来たそうで、social exclusion(社会的排除)の対義語である。ハンディキャップなどなんらかの理由で社会的に孤立した人たちの社会参加を、分野をまたいだ支援で促していこうということだ。social participation(社会参加)より、もっと弱者に焦点がある。



前置きが長くなったが、今回は菊池さんについて書きたい。ただし、あくまで本ブログのテーマの1つであるアイドル論の枠で展開するつもりだ。



さて、私たちの世代にとって、菊池桃子はアイドルの中のアイドルである。同級生にもファンが多かったし、同じクラスの女子が「あんな顔に生まれたかった・・・」と独り言をいったのも目撃したこともある。老若男女問わず多くをとりこにした文字どおりスーパーアイドルだ。



どちらかというと正統派より少し変わったくらいの人が好きだった(あるいはそう心がけていた)私には、アクがなく、優等生的な雰囲気の強かったこのスーパーアイドルは、あまり琴線に触れなかった。



当時の菊池さんはいわゆるアイドル歌手、「歌手もやっているアイドル」である。



歌手とは言っても、私の評価では歌唱力で語れるレベルではなく、歌っているのかささやいているのかわからない、これ以上おとなしい歌い方はないだろうという感じで歌ってた。また、音域の狭さからさほど楽曲自体で勝負する曲も歌えないという制約もあった(ただし、歌唱力に欠けていることは当時の「アイドル歌手」を成立させる重要な要因なので、批判的に見えるかもしれないが、否定的に言っているのではない)。



だが、彼女は勝負に出た。なんとフュージョンバンドを組んで、菊池さんをメインボーカルに据えたのである。それが今や伝説となっている「ラ・ムー」である。



今となると、アイドルとして絶頂を極めていた「菊池桃子チーム」がなぜそんなことをやったのか、本人たち以外わからない。



もちろん、アイドルがフュージョンをやってはいけないなどといった話をしたいのではない。メタル好きの大人たちが才能あるアイドルを使ってBabymetalを成功させるなど、自分たちの好きな音楽をアイドルで表現するというのは、決して希有なことではない。



とくにそのアイドルタレントの表現能力や技術が高ければ、メタルだろうがロックだろうが舞台だろうが、どんな表現だろうと可能だ(ただし、Babymetalはメタル界という場の「ローカルアイドル」だろう。この件は機会があれば)。



ただ、菊池桃子がフュージョンをやるというのは、今となると、いや当時だって、無茶な試みである。何者も脅かさない、育ちの良さから来る(これはアイドル界では実は希有なことだ)透明感が、菊池さんの最大の武器だったからである。



バンドという自己表現は、そういった資質とは対極にある。少なくとも、当時はトンチンカンに見えた。当時は、フュージョン好きなバカなスタッフが、自分の趣味を菊池桃子という特権的なスーパーアイドルにやらせただけだろうと冷ややかに見ていた。



だが、よく考えると、このラ・ムーというバンドが、当時の少年少女たちの語り草になっているという事実からすれば、もしかしたら成功だったかもしれない。単なるトンチンカンであれば、カルトの分野で語られるはずであるが、菊池さんを語るときは「ラ・ムーもやっていた菊池桃子」、あるいは「ラ・ムーの菊池桃子」とさえ言われることがあるのだから、実は成功だったかもしれない。あるいはそう再評価できる可能性がある。



では、ラ・ムーとは何だったのか。



菊池さんにとってラ・ムーとは、脱アイドルのための戦略だったのだろう。アイドル歌手を脱皮し、アイドルではない表現者になるために、彼女を愛するまわりの大人を(もしかしたら無意識に)動かして、バンドのボーカルという地位を勝ちとったのではないだろうか。もしかしたら、スタッフが菊池桃子で試みたのではなく、菊池桃子がスタッフを巻き込んで壮大な実験をやったのではないか。



ただ、世間は脱アイドルをこれまでほど受け入れることなく、ラ・ムーはさして騒がれることなく活動を停止した。



その後のことはよく知らないのだが、Wikipediaによると、菊池さんは女優に転身し、結婚、出産して一般女性となったものの、離婚してまた芸能界に舞い戻る。おそらく生活のためだろう。





離婚後にテレビに出ていた彼女は、アイドル時代とほとんど変わることない透明感のある印象だった。正直、驚いた。Wikipediaによると離婚前からある難病を患っていたそうなのだが、離婚と病気、そして働く母といういろんなものを背負いながら、少女時代と変わらないピュアな出で立ちだった。奇跡というと言い過ぎだが、希有なことではあるだろう。



似たような最近の例に森高千里がある。森高さんは子育てを一服して、またテレビに戻ってきたのだが、そのアイドル時代と変わらない容姿で世間を驚かせた。



ただし、森高さんと菊池さんとは似ているようで本質的には違いがある。



菊池さんはナチュラルにアイドル菊池桃子であって、いわば「そのまま」である。森高さんはアイドル時代の自分を模倣したのである。主婦から改めて「元アイドルのアイドル」として出直したと言うべきだろう。アイドルをやり直したわけだ。



現在の菊池さんの奇跡は、単に「あのアイドル菊池桃子がそのままいる」というだけではなく、いわば「あのアイドル菊池桃子は、ずっと菊池桃子だった!」という奇跡である。その場の現象は同じでも、時間軸を鑑みれば意味合いが違っていることはわかる。



私が見落としていたのは菊池さんは元から聡明であって(これもアイドルとしては希有だ)、まるで自我がないかのような透明性を持ちつつも、実はしっかりとした「個」を持ち続けていたということだ。



「個」はアイドルという職業を続ける上では邪魔である。ある者は個を抑えきれずにパンクやロックに行き、ある者は本格女優を目指す。もちろんどちらも人気が剥落して、多くは挫折する。いわゆる「アイドルとしての自爆行為」に走る。



それに対して、菊池桃子という聡明なアイドルは、フュージョンバンドのボーカルというアーティスト側に立ちながらも、アイドルという立場を脅かさない絶妙な方向に向かった。別の場で飛躍を目指したというより、「個」を発露しないとやっていけないほど、その聡明さゆえに心理的に追いつめられていたのではないだろうか。



おそらく「菊池桃子のためならどんな泥をかぶっても一肌脱ごう」という大人もたくさんいただろう。それくらい、菊池桃子がフュージョンバンドをやるということは、アイドルの公式を逸脱しており、自殺行為になりかねなかった。



だが、音域の狭いボーカルというハンディを抱えながらも、バックヤードでは最高のスタッフが菊池桃子を支えて、すばらしいとまでは言わないが、そんなに聞けなくはないくらいの音楽レベルを成立させる。おそらく多くの人が献身的に「別の菊池桃子」というワガママを支えたに違いない。



だが、よく考えると、アイドルを演じることも、フュージョンバンドのボーカルを演じることも、どちらも演じる点では同じである。多くの人の努力にもかかわらず、この菊池桃子の「脱アイドル」行為は、ぐるぐると旋回しながら振り出しに戻ってしまうのである。



振り出しからやり直さなければならない菊池桃子という聡明な1人の女性は、アイドルでもボーカルでも女優でも妻でも母でも、いかなるときでも、「個」を発露できないもどかしさに、どんな場を与えられても苦しんでいたのではないだろか。





一億総活躍国民会議の委員として「ソーシャル・インクルージョン」という見事な言葉を取りだして見せたのは、菊池さんがまさに社会と個との関わりで長いあいだ苦しみ続けたゆえだ。



アイドルという立場では、(仕事として)自分に尽くす人はいても、自分が誰かに役立ちことはできない。もちろんファンに喜んでもらうということはできても、それは「個」ではなく「虚」によるものであって、彼女の目指すものではなかったのである(言っていることがわからないという私と同世代近辺の方は、「準菊池桃子」と言うべき西村知美さんと比較するといいかもしれない)。



菊池桃子はスーパーアイドルでありながら、アイドルを否定し続けたアンチアイドルである。だから、こちらにはわざと損をしているようにも見えるし、トンチンカンに見えることもあるのだが、彼女の姿勢は一貫している。そして、その聡明さで、ついに自分が社会に貢献する方法論を勝ちとった。



一億総活躍国民会議の委員に菊池さんを選んだ人は、ものがよくわかっている。この人事で彼女を超える人はいない。願わくば「人気タレントを一人入れてみました」というのではなく、全国民が彼女の主張を真摯に聞けるように配慮して欲しい。



おそらくその価値があるくらい、菊池さんはすばらしい言語能力を備えているだろうと確信している。それは、完全無欠な一流アイドルの外見を持ちながら、それを拒否するという茨の道を究めた女性だからこその能力である。



菊池桃子というスーパーアイドルは、スーパーアイドルというスタートラインから脱アイドル運動を続けたアンチアイドルでもある。そういった矛盾の中でもがきながら、ついに自分のいるべき場を射止めた。人を幸せにしながら自分も幸せを味わうという誰もがうらやむポジションを手に入れた菊池桃子を見て、多くの元少年もさぞ喜んでいるだろう。



もしそうなら、菊池桃子は今もなおスーパーアイドルだ。



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