爆笑問題「お笑い」の技法 | 真面目に脱線話@リンガランド英語塾

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YouTubeを見ていたら、数年前のとある番組で、有吉弘行さんが爆笑問題に対して面白い指摘をしている場面を見つけた。それは、「爆笑問題の能力を認めている若手は多いが、爆笑問題になりたいと思っている若手はいない」といった趣旨の酷評である。しっかり笑いを起こしていて、私も感覚的に納得でき妙に感心してしまった。




最近はそういう人も減ったかもしれないが、爆笑問題が30代半ばでテレビに露出したはじめたころ、しばしば「太田光はビートたけしの後継者」といった言説があったように記憶している。たしかに当時、太田光さんの知的バックグランドから繰り出される毒舌や文才もそうだし、また政治的発言も多く、インテリ受けするところなどもたけしさんを彷彿させた。



だが、両者には違いも感じていた。それがまさに上の有吉さんの指摘である。言い換えれば、「ビートたけしになりたい芸人はたくさんいるが、太田光になりたい芸人はいない」ということである(もちろん、極論として)。



では、両者で何が違うのか。そのために、太田さんの「お笑いの技法」を自分なりに考えてみたい。





唐突に話が変わるが、世の中には「おせっかい」と呼ばれる人がいる。漢字だと「お節介」と書く。文字どおりものごとの節々(ふしぶし)で介入(=口出し)してくる人のことだ。



おせっかいは基本的にその人の性格のことを指すが、実は「立場」のことを指すこともある。その言葉の印象とちがい、「おせっかい」はコミュニティにおいてはかなり重要な役割をしていると私は考えている。



伝統的な日本社会はルールを明確にせず、言葉を介さず、「空気」に喩えられる見えないもので、コミュニティのメンバーに圧力をかけて秩序を守っている面がある(「村八分」が典型だろう)。そのため、「空気が読めない者」は、知らないあいだに孤立して、心理的に追い詰められることがある(これが一方的な心理的暴力として露呈すると、伝統的な意味の「いじめ」となる)。



その「空気を読めない者」を、言葉という武器で唯一救い出せるのが「おせっかい者」である。



おせっかい者は、空気が支配するコミュニティで言葉という「ノイズ」を使って、孤立する者に向かった「空気」を相対化したり、コミュニティで孤立したり割を食っている者の意見を吸い上げたりして、コミュニケーションを促進したりする貴重な存在である。



おせっかい者も、孤立する者と同様に、コミュニティでは「空気が読めない者」というレッテルを貼られる。だが、おせっかい者には人望があり、微妙なバランスの上でそれをおこなう技能がある。その場その場で空気を読みながら汲汲と行動するメンバーをさらに俯瞰(ふかん)すること、いわば「<メタ>空気を読める」という特殊能力がある。



太田さんのお笑いの技法は、このおせっかい者の立場に似ているように感じる。空気(≒「お約束」)が支配する場で、あえて「空気が読めない者」としてノイズを作り出し、「お約束」を超えたハプニング的お笑いを仕掛けることである。



太田さんはあたかもだだっ子が気まぐれにしゃしゃり出てくるように見えるが、このやり方は見た目ほど楽なものではない。お笑いに結びつく的確なノイズを作り出すためには、ノイズが最も効果を発揮するタイミングをはかって飛びださなければならない。また、ノイズは人間関係で摩擦を生みやすく、事後にそれを許される何らかの口実が必要である。



この構図が伝統的コミュニティにおけるおせっかい者に似たところである。






ところで、おせっかい者の多くは「おばさん」である。なぜおせっかい者ならノイズを許されるかと言えば、普段から(多くは専業主婦として)時間を割いてコミュニティに尽くし、誰もが認めるぶれない正義感を持ち合わせ、かつ人の気持ちを逆なでしない母性があるからだ。だからこそ、言葉でノイズを作り出すことが許されている。



太田さんにおいても、ノイズを作り出す以上、事後に「許される」という過程が必要になる。



お笑いは多かれ少なかれ、予想外の言葉や行動がきっかけになる。次に来る予想を裏切られるからこそ、人は笑うものである。たとえば、「皆さんお元気ですか」と言われれば「私も元気です」を通常の文脈では無意識に予想するが、「皆さんお元気ですか。私は病気です。ごほんごほん」と続ければ、予想が裏切られ、これに話術がつけば笑いが起こる可能性が生まれる。



この「裏切り」が形式化すると「お約束」である。お約束は、予想外の前段階(「ぜったい押すなよ!」)を形式化して見せることで、次の予想の裏切り(「なんで押すんだよ!」)を予想するという二重構造がカタルシス的な笑いとなったものである。さらに、このうちの応用範囲の広い形式のみが取り出されて、笑いとして繰り返し消費されるものが「ギャグ」(笑いが起こらなければ「芸」)である。



さて、太田さんの生み出すノイズは、こういった文脈上の予想を裏切ることではない。その文脈を生み出すルールや制度に対する裏切りであって、いわば「<メタ>裏切り」である。だから、「寒いギャグ」などといった笑いに結びつけうるものではなく、その場を凍らせるというレベルで、保守的な視聴者やその制度中で特権的な人(多くは「ベテラン」)を本気で怒らせるリスクがつきまとう。



それを阻止してリスク回避する役目を担っているのが相方の田中裕二さんである。



田中さんは背が低く愛らしいルックスをしており、人格的にも太田さんよりバランスがとれている常識人だ(少なくともそのように見える)。その田中さんがその「<メタ>裏切り」を、太田さんの人格まで否定するような言説で、リスク回避する。



この「<メタ>裏切り」もぎりぎりだが、田中さんのリスク回避もぎりぎりである。もし田中さんのリスク回避がわざとらしく見えたら、爆笑問題自体が批判に晒されたり、嫌われたりすることになる。それを避けるために、田中さんは太田さんに対して常に本気で怒っているように見せなければならず、「こなす」以上の「全力」が求められる。





ゆくゆくはお笑いという「職業」で成功したい若手が、爆笑問題の過酷なぎりぎりの笑いをやりたいとは思わないのだろう。少なくとも、ベテランと呼ばれる人たちがやりたがるものではない。だからこそ、爆笑問題は特殊なのである。



中年期を超えた爆笑問題にそれができるのは、太田さんがその「ぎりぎり」を技術としてだけではなく、「体質」として持っているではないだろうか。



また、太田さんにその場その場でノイズを起こすべきタイミングがわかるのは、文脈を支配する「ルール」や「制度」が見える能力を持っているからではないだろうか。技術はマネできるが、体質はマネできない。



田中さんは田中さんで、そういった太田さんに同化できる能力を持ち合わせているのだろう。しかも、同化した相手と真逆な人格を演出しなければならないわけで、そこで「さすがは太田光」などといった態度を見せてはいけない。田中さんのつっこみは単なるボケに対するつっこみではなく、太田さんのリスキーなノイズを救うぎりぎりの業(わざ)だ。




私は爆笑問題に関してそういった考えを持っていたので、最初の有吉さんの指摘が腑に落ちたのである。たとえ爆笑問題に憧れていた若手芸人がいたとしても、その現場を見た上で爆笑問題になりたいとは思わないのではないか。



爆笑問題の「顰蹙(ひんしゅく)を買う」の一歩手前にとどまり続けるこの技法は人によっては「苦行」である。



続きます。







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