いや、驚くべきこともしれない。伊藤先生自身この『英文解釈教室』を自己批判して、そのアンチテーゼとも言える『ビジュアル英文解釈』を書き上げるのである。
伊藤先生が「とんでもなく頭の良い人」というレベルの人物だったら、次の仕事として、受け入れられて浸透した『英文解釈教室』を、もっとやさしく書き直して、自分のやり方をさらに広めようとしただろう(『ビジュアル英文解釈』のことをそういった主旨の参考書だと考えている人が多いが、それも誤解だ)。
だが、現実にはそうはしなかった。『英文解釈教室』は「終わったもの」として切り捨て、次のステージに行ってしまった。
これをもって、私はこの伊藤和夫という人物を「天才的」だったと評価づけたい。
「天才」と言うと、広く言語にまつわる世界なら、ソシュールとかウィットゲンシュタインとかチョムスキーなど、自分の宇宙を作った人ということになるだろう。伊藤和夫はさすがにそのレベルではないものの、そういった天才の次のレベル、それに準ずるレベルくらいの人物だったと考えている。
では、伊藤先生はなぜ『英文解釈教室』を否定してしまったのだろうか。
単純化して言ってしまえば、「人工的すぎる」ということである。
『英文解釈教室』の冒頭は「最初に名詞が来たら、それを主語と考えて、次にその主語に対応する述語動詞を探す」ということである。
「だって、Under the desk might be good (if you feel the earthquake and want to protect yourself from it.(作例です)みたいな英語では、前置詞のついた名詞が主語じゃないか!」といった反論で、これが絶対的なルールでないだろう」といった批判したりする。
だが、これは的外れだ。というのは、私たちがこれがかなり特殊な英文だとわかるからだ。それが特殊だと感じられるのは、「最初に名詞が来たらだいたいの場合は主語」だという前提があるからであって、前提を最初に覚えなければいけないのは教育的配慮からしたら当たり前のことである。
そういったことを言う人は、「最初に名詞が来たら、それを主語と考える」というのは決して「伊藤和夫ルール」だと考えているのだろうが、そうではない。英語が読める人が英語を読む際には最初にそう予想して読むのが当たり前だから、そう解説しているにすぎない。
もちろん、ルールには例外もある。だから、例外パターンを出して、「最初の読みを修正する」という第二作業をおこなわせるわけである。この「予想と修正」という流れが『英文解釈教室』のキモである。
処女作の『新英文解釈体系』から『英文解釈教室』に至るまでの道のりで、大きく変わったのは、『英文解釈教室』が「英語を読める人が自然とやっていること」を体系化した点である。『新英文解釈体系』は秀才がその才能を見せつけるが如く英語をぶった切った参考書だが、『英文解釈教室』にはそういった自己顕示欲が抑えられ、その論がナチュラルに流れている。
だが、そのナチュラルさを極めることで、『英文解釈教室』の「人工的すぎるところ」が際だつのである。
それは、最初にルールを言ってしまうと、第二作業の「例外」は頻度に関係なく出さざるを得なくなることに起因する。
「ほとんど目にしない」といった例外も出てきて、まるでそれが「重要構文」のように思えるという大きな欠陥がどうしても出てこざるを得ない。
『英文解釈教室』は「英語を読める人の当たり前のルール」を収めているが、一般的な読者にとっては、今後、英語に接して目にするかどうかわからないような特殊な構文集になってしまうわけである。
『英文解釈教室』のアンチテーゼである『ビジュアル英文解釈』のすごさは、その英文の並べ方である。私など見ていて、「なんでこんなに計算されたように重要構文がバランス良く出てくるのだろう」と不思議になってしまうほど見事だ。
いや、この人は膨大な入試問題のストックを使って、実際、計算し尽くして作ったのである。
もちろん伊藤先生への批判はあっていい。ただ、これだけの人物が、日本の受験英語というアカデミズムと関係もない世界に現れて、これだけの本を残してくれた奇跡を感じている人がどれくらいいるのだろう。
中には「日本の英語教育をダメにした」とまで言い切る人までいる。こういう人はたぶん物事を1つの面からしか見られないのか、あるいは、何かトラウマでもあるだろうと考えて、自分を納得させている。
(この項おしまい)

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