日曜日のラジオは聞ける日は欠かさず聞いている。その思いが募って・・・だと言い過ぎかもしれないが、ずいぶん前に「安住紳一郎の言語学」という記事を書いたことがある。さらっと書くつもりがぐだぐだと続いて、8回ぶんにもなっていた。
なぜタイトルに「言語学」とつけたかと言えば、そのときに主に安住アナの「言葉」に注目したからである。
安住アナの言葉には独特の「重み」がある。
記事を書いた当時、安住アナはもっぱらバラエティ番組の担当で本来、MCとしての言葉は軽くしなければならないのだが、彼の言葉は軽妙であっても、私には決して「軽い」とは感じないのである。
その理由として、安住アナが地方出身者として、意識的に標準語を身につけ、それを武器として磨いてきたからではないかと考えた。
もちろん地方出身のアナウンサーは数多くいる。安住アナの場合、言葉をできるだけ饒舌さとは逆に、シンプルに使うこと向かっている。
たとえば、「線路沿いに木が植えられている」という表現を、少し古風な自動詞「植わっている」を使って「線路沿いに木が植わっている」とする。後者はシンプルながら鋭い表現に響く。それが独特の重さを醸す一因になっている。
安住アナの言葉にはよけいな装飾をそぎ落としたようなシンプルな力強さがある。表現対象をずばりと短い言葉で表す技術に卓越しており、その部分が独特の「重さ」を与えているのかもしれない。
もう1つの資質として、アナウンサーとしての自負心とともに、自分の欠点を冷笑的に見られる強烈な辛辣さがある。いわゆる「皮肉屋」であるが、それが独特の「傲慢でありながら謙虚」といった矛楯する印象を与えているように感じる。
・・・たしかそんなことを分析したように記憶している。
ところで、安住アナを分析した記事やブログを読むと、「真面目な雰囲気から繰り出される辛辣な言葉」「真面目な外見から想像もできないような毒舌」といった表現を目にすることがある。
安住評の多くが「外見は真面目」なのに「毒舌」「辛口」というところに集約されるようである。
では、外見が真面目で、言葉が辛口なら人気アナウンサーになれるかと言うと、もちろんそんなことはない。
そもそも「チャラさ」はアナウンサーの資質としてはマイナスで、男性アナの多くが誠実そうな風貌である。たしかに安住アナはいつもスーツとネクタイをつけており(たとえ夏の沖縄の浜辺であっても)、どんなにおちゃらけた対応であっても仕事に対するまじめさが醸される。
だから、「まじめにおちゃらけている」という感じになる。
でも、だからと言って、真面目そうなアナウンサーが辛口のことを言えば、「安住的MC」になるかというと、おそらくそんな簡単なことではないだろう。もしかしたら「安住ふう」にはなれるかもしれないが、「安住的」にはならないはずだ。
だから、安住アナには、そういった要素とは違う「安住的」を成立させるものが何かあるはずだ。
まず、「安住的」は「安住ふう」とどこが違うのか。
この疑問を解くためには、「真面目そうな外見」なのに「言葉が辛口」という対比を疑わなければならない。
「安住的」を成り立たせているのは、安住アナの外見や風貌ではない。安住アナの言葉だ。安住的であるためには、「誠実な言葉」で「毒舌を吐く」という対比が必要なのである。
では、安住的な「誠実な言葉」とは何か。
それは、誠実に言葉を使おうとする姿勢のことだろう。「毒舌を吐く」と「誠実に言葉を使う」は本来は相容れないものである。だが、安住アナはそれをみごとに両立させている。これが圧倒的な彼の人気の土台になっているのだと思う。
たとえば、同じ毒舌家である宮根誠次さんの言葉遣いは正確で巧みではあるが、「誠実」という印象を持つ人はさほど多くはないだろう。それは、宮根さんがアナウンサーとしてMCをやっているのではなく、あくまでエンターテイメントとして言葉を使っているからである。宮根さんにとっては「どれだけ視聴者を楽しませたか」が価値基準であり、「誠実さ」は二の次に来る。
それに対して、安住アナはあくまでプロのアナウンサーであろうとして、誠実に仕事をしようとしている。エンターテイメント性を重視する人たちとは、根本的に言葉に対するスタンスに違いがある。
なお、言葉遣いの丁寧さと誠実さとは直接は関係がない。それは一般的に「誠実さ」とは「誠実たろうとする態度のこと」だからである。
では、なぜ安住アナには「誠実な毒舌」が可能なのか。
とくにラジオで顕著なのだが、安住アナには自画自賛と自虐がかなり多い。それは私などには極端に思えるほど過剰なものである。
通常、私たちは自分の長所は控えめに、短所は自分の価値が下がらないところで無難に表現する。ところが、安住アナは長所と短所など分け隔てなく、すべてを「誠実に」描写する。通常の「一般ルール」は無視しているが、自分の価値観に誠実なのだ。だからこそ、「一般ルール」に抑制されている受け手には過剰に感じられ、毒舌にように感じるわけである。
安住アナの毒舌はあるものをあるがままに、伝えるべきことをシンプルに表現した結果に過ぎない。毒舌は結果だ。
ただ、その対象が普通の人なら表現をはばかれる、いや、むしろ存在も認めたくないような妬みや嫉妬、変態性といったものまでに至っているのが特異なのである。
たとえば、自分を良く見せたいとか、他人を出し抜きたいといった欲望は通常は「ないもの」とした上で演出が始まるのだが、安住アナの場合はそれをそのまま表現する。しかも、その卓越した表現力のおかげで、その過剰さがエンターテイメントにまで昇華している。
だから、安住アナの表現する嫉妬は「エンターテイメントとしての嫉妬」であり、安住アナの表現する変態性は「エンターテイメントとしての変態」である。人間の負の感情を誠実に表現し、それをエンターテイメントにまで昇華しているからこそ、安住アナは「誠実な毒舌」となる。
テレビでの安住アナは、その「誠実な毒舌」がゲストや共演の芸能人に向く。ただし、テレビという性質上、かなり抑えている。過剰であれば攻撃的になるが、抑えているので親しみを醸成する技術となり、出演者を生かすのに役立っている。だから、『ぴったんこカンカン』では、トークが上手ではない出演者でも時間を持たせられるし、ほかの出演者では引き出せない違った顔も引き出せるわけだ。
安住アナはビートたけしさんと報道番組で競演している。双方とも毒舌が得意だが、そのあり方は大きく違う。
たけしさんの毒舌は「つまんねえよ、バカ野郎!」といったように、言葉そのものを乱暴に毒化して、過剰な言葉を使うことが基本となっている。たけしさんにとって言葉はあくまで「道具」であり「武器」である。まわりを巻き込んで対象にどれだけダメージや影響力が与えられるかという破壊性が肝心だ。
そのため「誠実な」安住アナの横にいると悪ふざけをしているようにしか見えず、本来の「みんなを巻き込む」といった雰囲気が消されて浮いているように見える。
共演する両者は全くかみ合っておらず、一方がしゃべるとき、他方は聞き役にとどまるしかない。魅力的な2人だが、お互いに良いところは引き出せないままである。私はどちらも好きなのでもったいないオバケが出そうなのだが、合わないものは合わない。

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