20代のころは不遜というか傲慢というか、「英語の教え方については日本一知識がある人間になってやる!」と思って、かたっぱしから英語の参考書や英語教育に関する本を読み、学会やセミナーにも出席した。
ちょうどそんな時期のまっただ中にあった頃の話だ。
私は小学校英語で有名なある指導者のセミナーに出席した。それは音を中心とする教育法で、指導を遊びとを一体化して、からだを使って学ばせるという方法だった。
当時は、英語公用語化に成功したシンガポールの例などを見て、英語を学ぶのは早いほうがいいと考えていた。子供が遊びを通して英語を学ぶというのも、素晴らしい方法だと考えていた。
セミナーの途中で、照明が消されて、演壇の上のスクリーンで、子供たちが実際にこの方法を実践している様子をビデオ撮りしたものが流された。
正確なことは忘れたが、おそらく小学5年生くらいの子供たちが、おそらく海外製の幼児向けの玩具を使って、みんなで遊びながら英語を発話する練習をしていた。
それをぼっと見ていると、はっとする場面に出くわした。
みんなが玩具を頭に乗せてにこにこしながら英語を発話していく中で、その中にいる1人の男の子の表情が、冷笑的というのか、卑屈といっていいのか、なんともいえない表情だった。その表情を見て、私はどきっとした。
その表情が、恥をかかされてそれでもまわりに合わせて笑わなければならないとき特有の痛々しい笑顔だと気づいたからだ。
この男の子は子供っぽいことをやらされていることに、おそらく彼なりの屈辱を感じているのである。それでも、大勢の輪を乱さないように我慢してやってやらざるをえない。笑いたくもないのに、笑っているのだろう。
自分が小学校5年生だったときを思い返した。
たしかに子供でないとやらないばかばかしいこともやる一方で、一人になると真面目なことも考えていた。友達とは教師に怒られるまでふざけていても、ひとりでどぶ川の蛭(ひる)を見ながら「自分はどうしてこの蛭ではなく、人間に生まれたのだろう。蛭には意識があるのだろうか。そもそも意識とはどういうしくみで、なぜ自分は自分の意識を持つことになったのだろう」などと考えていた。
小学生は大人には「未完成の人間」に見えるだろうが、子供は子供なりの哲学があり自尊心がある。幼稚だと思うことをやらされれば、屈辱を感じて当然だ。
中学校で英語を習いたてのころ、catの「アとエの中間」という発音をやったとき、休み時間に「あんな恥ずかしい発音なんてやれるか」とわめいた男子生徒がいた。tは絶対に発音するなと言われたoftenを「オフトン」と発音して、笑い者になった女子生徒もいた(今となると、彼女の発音は正しかった)。
たがが発音1つでそうなってしまうくらい、英語は私たちのプライドすら脅かす存在である。それは子供でも大人でも変わらない。
英語が好きであるとか道具として必要だという意識があればそうはならないが、そんな意識も経験のない生徒に英語、とくに英会話をやらされるのは、軽い精神的虐待にもなりかねない。
英語をやるとは、日本人としてのプライドをかなぐり捨て、英語の世界に魂を売ることである。「子供のうちにやれば英語なんて話せるようになるはずだ」などと、ものごとを安易に考えていないだろうか。
これはそんな単純な話ではない。
英語は日本人にとってやっかいな存在だ。長くなるのでここでは述べないが、「これからは英語が大事だ。とくに英会話だ」と言う一方で、実際に外国人が近づいてくると、こそっと逃げだそうとしたり、見てみないふりをしてしまう人が多い。それは、日本人が強烈な英会話コンプレックスであるからにほかならない。
外国人から逃げたくなるのは、深層では英語なぞ話したくないからである。でも、それと同時に、英語を話せるようになりたいという願望が常につきまとう。英語とはそんな面倒な存在である。
日本にいて英語が話せる者は、英語を話さざるをえないという状況に現実として(ときには精神的に)追い込まれている(あるいは追い込んでいる)者だけだ。
前回、小学校英語の反対派の意見として、「英語の前に日本語をちゃんとやれ」とか「日本のことを知らずに、英語で何を話すのだ」といったことを言う的外れな批判をする識者がいると述べた。
これは英語コンプレックスの反動として、「英語を話せる立派な日本人像」というとんでもないモデルを、学習者に押しつけているのである。
こういった発言をする人は多くは、基本的に学識深い、でも英語は話せないインテリである。インテリであっても、いやインテリであるゆえに英語コンプレックスは心に深く浸透している。だからから、自己肯定の意志も相まってこういった極端なことを言うのだろう。
小学校英語を熱心に進めようとする識者も同様だ。英語ができないというコンプレックスの解消を断念した者が、その願望を成就を子供に託そうとしているのだ。「自分が英語ができないのは、中学で文法ばかりやったせいだ」という自己正当化を、小学校英語を成功させることで証明しようとしている。
私にはそういうふうに見える。
また、これとは逆のパターンもある。
アメリカの大学を出て海外でビジネスをして英語が堪能な日本人が、ほかの日本人の英語を馬鹿にしたり、酷評するのを意外とよく目にする。下手な人を馬鹿にするだけではなく、私などから見るとじゅうぶん英語が上手な人に対して、「あいつの英語表現は下品だ」とか「英語の発音がひどい」などなど、言った内容以前の英語力のあら探しをしている。
そのレベルにあるのだから日本人どうしの英語力なぞどうでもいいと思うのだが、そんなにうまくなっても日本人どうしで英語力の比較をいつまでも止められない。逆に言うと、こういう人たちはほかの日本人と差を付けたくて、英語をがんばってきたのだろう。
先の英語のできないインテリが「日本らしさ」を重視する例は、英語コンプレックスが英語ができる(が、日本語は自分よりできない)人に対して発揮されたケースだ。「英語より日本語が大事だ」と言うことで、日本語の世界で上に立つ自分を描きだすことで、英語コンプレッスに対抗している。
あとの英語ができる人ができない人を馬鹿にしたりできる人のあら探しをする例は、英語コンプレックスが「自分は英語ができる」と主張することで発揮されたケースである。
つまり、日本人にとって英語コンプレックスはエンドレスなのである。英語ができようができまいが同じである。どんなに高いレベルになっても、日本人が英語コンプレックスを脱却することは不可能なのである。
続きます。

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