なぜコミュニティの調整作用などといったものが必要かというと、伝統的な日本社会では言葉で自分の被害を声高に訴えることが「みっともない」と判断されかねないからです。
また、私たちもそういった訓練を受けていないので、被害の状況説明がしばしば感情的な訴えになってしまいます。
また、人のそういった様子を見れば、「被害の訴え」=「みっともない」と感じる人が増え、被害を受けても黙ってそれを受け入れることが良いことだという価値判断が生まれてくるのも自然なことです。
しかし、頭でそう考えたからといって、感情で受け入れられるかどうかは別問題です。とくに損得に敏感であれば、「被害を受け入れる」=「損」ですから、それだけストレスになり、感情に悪影響を与えることになります。
被害を受け入れることが飽和に達すると、その人は「いかなる被害も受け入れられない」という状態になります。そうなると、被害者意識が被害妄想へと移行します。
被害妄想とは、自分にとって損になることはいっさい許容できないという心理状態のことです。
問題は「損」という概念がときとして曖昧であることです。
たとえば、一緒に食事をした相手におごってあげれば、その場は金銭的な損です。でも、あとでおごってあげた人が親しいあなたのために仕事上を回してくれれば、むしろ得だったのかもしれません。
つまり、「損」というのはどこかで判断を打ち切ったから確定するのであって、長い目で見るとそれが本当に「損」だったのどうかはわからないのです。
それに、どんなことでも自分にとって損の要素はあります。被害妄想はものごとから損な要素を積極的に探す態度のことですから、あらゆることで自分が被害にあっているように感じることになります。
また、攻撃的になることで「損」を食い止めたことをいちど「成功体験」として認知してしまうと、被害妄想の人は何かにつけて攻撃を繰り返すようになります。いわゆるクレーマーやモンスターペアレントはこの状態にあります。
日本人的なコミュニケーションでは「被害を説明する」というのは好まれないのに、「感情を爆発させる」が意外と許容される点にあります。損得に関する言葉のやりとりを好まない日本人は、「怒っている人には理由があるのだから、怒りは正義だ」といった考えに傾きがちだからです。
侃々諤々の中で、最後の最後、権力者が怒りを示すことで組織をまとめるといったようなやり方が伝統的にとられることがあります。怒り=正義ですから、組織内のメンバーがどんな意見を持っていても、議論を超えたところで強引にまとめるわけです。
欧米なら「怒り」=「ルール違反」でその人の意見はむしろ通りにくくなるのですが、日本ではむしろ逆になることもあります。
被害妄想のある人もこの手法をとります。とりあえず怒りを示すことが自分の我を通して、自分が損をすることを阻止するわけです。
ただ、問題があります。それは怒るという行動がさらに「怒り」を呼び込んでしまうことです。
人は怒る原因があって怒るというより、怒っているという動作をするから、自分が怒っているとわかるという面があります。怒りもあくまでコミュニケーションの1つです。いちど怒りというコミュニケーション手段をとったからにはそれで通さないと、正当化が破綻してしまいます。
ちょうど、中国がこの状態です。いちど日本に対していちどこぶしを振り上げてしまったために、そのポーズを納めることができずに、常軌を逸した行動が続いています。
被害妄想が怒りと不可分であるのは、被害が怒りに結びつくからというより、被害妄想でもっとも重視される損を防ぐ点で、怒ることがもっとも効果的だからです。
たとえば、テレビのニュースで「○○被害者の会」の方たちが記者会見のときの怒っている様子が映っていることがあります。
そういった方の心に「怒り」が存在するのは事実でしょうが、だからといって、怒りを表に表すかどうかはまた別問題です。それでもなぜ怒りをわかりやすく表現するかといえば、被害を受けたのだから怒りを表現するのは当然だという無言の圧力があるからではないでしょうか。
記者会見が用意されている時点で、「被害を受けて行動までしたのだから、そうとう怒っているはずだ」という前提が設定されます。本来なら被害者の方たちは状況をたんたんと説明すればいいだけなのですが、それだと「納得」が得られないからと、怒りのポーズをとらされてしまうわけです。
それもこれも感情を言葉で説明することを軽んじる文化背景が招いたものではないでしょうか。
続きます。

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