この世でどんなに可能性や理想を追い求めても、死が人間にもたらす絶望だけは避けることなどできない。ただし、神がその状態を救ってくれる可能性は依然として残っている、といった意味だそうです。つまり、「死ねばみんな終わりだと思うと達成感なんてなくなって、絶望状態になる」といったことではないでしょうか。
「わかるようなわからないような」といった感じですが、それをちょっとだけ真似してみると、今回のテーマは「人間関係を破綻させ、人を不幸にする病とは被害者意識である」と言えるかもしれません。
さて、英語で書かれた人間関係に関する心理学の記事を読んでいると、人間関係が崩壊する原因が分析されている内容にあたることがあります。それを読んでいると、この長い記述は、被害者意識のひと言を使えばいいのでないかと思うことがあります。
どうやら英語の世界では「被害者意識」をそのままずばりと表せる表現がないようです。ほかの言語のことはわかりませんが、もしかしたら日本語独特の表現なのかもしれません。
なぜ英語にこの用語がないのかと考えると、おそらくrightとかclaimなどの権利にあたる言葉に含まれるからではないかと思い至りました。
何か被害を受けたときに、それが相手の責任であると確定させ、その範囲を限定して、代償の必要性を考えるといった行動は正当なもので、当然の権利です。正当な権利であれば、そのときに意識に対して「被害者意識」などといった名称をつける必要はありません。行動を起こして解消すればいいだけです。
ところが、日本だとそう簡単にいかない面があります。なぜなら、日本社会は近隣や知り合いなどの「他人の目」を気にする文化背景を持っているからです。
被害にあったときに、それがどれくらいの被害なのか第三者に判断してもらうというのが、もともとも裁判というしくみの出発点です。ところが、日本で訴訟を起こすとなると、「他人の厳しい目」にさらされる可能性があり、果てには、まわりの人間関係まで断ち切る覚悟まで必要とされる場合もあります。
それくらい、個人的な被害を公にすることが簡単ではない社会です。もちろん、相手がそれを被害だと認めて、日本的文脈の中で代償してくれれば収まりますし、実際、ほとんどの場合はそうやって波風立たずしのいでいます。
しかし、一般論として、加害者と被害者の「被害の範囲」は一致しないものです。極端な場合には、Aは「被害など与えていない」、Bは「莫大な被害を受けた」と全く逆の主張をすることもありえます。
だからこそ、第三者がそれをできるだけ公平に判断するという、裁判という制度が広く発達したわけです。
日本社会では、加害者は過剰にくらいに謝る、被害者は過小なくらいに受け入れるというマナーのうえにこれを収めてきました。ちょっと難しい言い方をすれば、礼節の上で意識を共有して、最初からなかったものにするといった儀式をおこなって解消してきました。
これがうまく機能しない場合に被害を受けた側に発生するのが被害者意識です。この言葉が日常用語として存在するという事実が、日本社会の特徴を浮かび上がらせてくれます。
ところで、解消できない被害者意識をかかえた者は、その後どうなっていくのでしょうか?
たとえば夫婦であってそれが配偶者に対する意識であれば、最後は離婚ということになるでしょう。
いわゆる熟年離婚の典型例では、妻側に離婚を請求された夫が、思い当たるところがなくて慌てふためくという状況が描かれることが多いようです。
夫が妻の意識を共有できれば慌てることなどあるはずもありませんから、その原因は妻側の被害者意識の共有ができていなかったためだと考えられます。
もちろん離婚までいくおはただ事ではありません。そこまで行く場合、妻側が被害者意識を常に持ち続けて、なんらかのきっかけで許容不可能な飽和レベルまでいってしまったこと、そして夫がそのことに最後まで気づかなかったためでしょう。
英語圏の記事でこの被害者意識らしきものが精神症の原因として描かれるようになっているということは、世界の日本化の中でこれが一般的な現象として存在するようになってきている可能性があります。
被害者意識は人の心や人間関係に大きなダメージをもたらしうるものですが、なぜそれほどに人の心や人間関係にダメージを与えるのでしょうか。
次回、その点について自分なりに考察できればと思います。
(続きます)

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