透明感は本来、アイドルタレントに必須の要素である。好きなタレントが「透明」であればこそ、私たちはそこに好きな中身を入れてあこがれることができる。
ところが、現在はタレントの透明感が、あっというまにぶちこわされる時代である。虚実を交えたネット情報でそのタレントが「透明でない」ことが暴露されてしまう。そもそも透明な人間などいないのだが、タレントは見る者に幻想を与えることをなりわいにしているから、これでは「アイドル業」は成り立たない。
だから、現代は本当の意味での「アイドル」が成り立ちにくい。だからこそ、女性アイドルは時間の経過とともに低年齢化し、見る者は好きなアイドルになんとしても処女性を見いだそうとする。
以前、このブログで女性が男性の求めるものが「ルックス→経済力→ルックス」となると述べた(→リンク)。女性はある程度年齢を重ねると、若い頃のように再び「アイドル」を求めがちになる。
そこで彼女たちが見いだしたのがヨン様だ。しかし、そのヨン様もマスコミでの露出が増えてカリスマ性が薄まり、年齢を重ねるごとに透明感を失うと、人気が下降する。
次に現れたのが東方神起である。
実は私は東方神起のことをほとんど知らない。ただ、画像検索で見てみると、みんな小顔の長身でイケメン、黒か白のモノトーンの衣装が圧倒的に多く、全体的に無個性な印象がある。(そもそもイケメンは、顔が無個性になりがちではあるが)。
彼らの最大の魅力もおそらく「透明感」=無個性化だったのだろう。
では、彼らと日本人タレントの違いはどこだろうか? もちろん歌や踊りが水準を超えていたともあるだろうが、日本人タレントと一線を画すのはやはり「カタコトの日本語」である。言葉がつたないと聞く者には幼さ・愛らしさを与える。日本語がつたないからこそ、韓流アイドルは透明感を確保できる。
東方神起は、日本でヨン様が人気を博したのとほとんど同じ方程式を使って、さらに進化させたアイドルグループであると言っていいだろう。いわば若返って才能あれる「歌うヨン様たち」だ。年齢が若く、音楽の分野で活躍する彼らは、若い女性を巻き込んで人気を博すことになる。
しかし、問題がある。いくら東方神起に透明感があると言っても、実際の彼らがそうではないことだ。メンバーひとりひとりはおそらく人一倍我が強く、ある種傲慢な自信家であるはずだ。そうでないと生き残れないほど、芸能界は苛烈な競争社会だからである。
日本にいると、そんな強烈な自我もカタコトの日本語によってフィルターがかかる。メンバーの個性を透明化する装置としてうまく機能している。
だから、(おそらく)彼らは意に反して、無個性であることを強いられる。日本でアイドルグループとして活躍し続けることは、まるで自我がないかのようにふるまうことにほかならない。ますます自分と求められるものとのキャップが広がっていく。
しかも、彼らが人気者として認知されると、次に1人1人の人気競争に入る
これは大変な矛盾である。なぜなら、無個性化の中で、自分と他のメンバーとの差別化をはからないと、自分が何かわからなくなってしまうからである。
では、個性化を発揮できない状況で、自分を表現するためにメンバーは何をがんばればいいのだろうか?
正直私にはよくわからないし、おそらく東方神起のメンバーにもよくわからなかったのではないだろうか。自己表現の方法がなければ、「がんばらなければいけないのに、がんばってもムダ」というどうしようもない状態になる。
芸能人になる本来の動機は自我を拡大することである(「もてたい」とか「自分を広く認知させたい」など)。そこには自分らしさを発揮して、自分を再発見したいという気持ちがともなうものだ。ところが、自我が抑えらてしまうと、グループ内の自分の差別化ができない。制服を義務づけられている高校生のように、ちょっとした差異で他人と差別化をはかるしかない。
そうした環境にいると、とくに男性はちょっとした差(人気や待遇などわずかな差)が許せなくなってしまう。男は自尊心を守るために、たくさんのものを犠牲にしてしまうこともあるやっかいな生き物だ。
外に目が向けられなければ、中に目を向けるしかなくなる。あとに残るのは「人気の者の中の人気者」と「人気者の中の不人気者」や、「まじめにやっている者」と「うまく立ち回った者」や、「所属会社の指示を守る者」と「所属会社を軽んじる者」との対立だったりする。
もしかしたら東方神起の分裂は、無個性化の中で圧倒的な人気を勝ち取ったがための代償だったのかもしれない。
続きます。
