『ノルウェイの森』は村上春樹氏を「国民的作家」に押し上げた記念碑的な作品である。
この作品には熱狂的な読者もいる反面、性的な場面が多いために嫌悪感を持つ読者も少なくない。しかし、だからこそ、私はこの作品に高い倫理性を感じた(後述)。
本当にいろんな角度で読まれている。長いわりには読みやすく、ストーリーも単純である。ただし、その構造はすこし込み入っている。
ただ、いくら複雑な構造をしていようが、単純化は可能である。
この作品の場合主人公(ワタナベ)、直子、緑の三角関係である。これにいろんな人物が付随して、人間関係が複雑化している。
三角関係と言うと、1人の男ないし女を複数で奪い合う愛憎劇のようなものを想像しがちだ。だが、どんな恋愛であっても、三角関係が必然的に存在する。
もちろん恋愛はAとBの1対1で成り立つものだ。しかし、恋愛の1対1関係はもろい。なぜなら、Aが異性CとくっつけばAとBの恋愛は簡単に終わるからである。そのあとに、AとCの1対1関係に変わる。
それを避けるためにあるのが結婚制度だ。
恋愛が永続する1対1関係であれば結婚などといった形式をとる必要はない。現実はそうではないから、結婚制度が必要なのである。結婚には別の異性Cの存在を前提としており、AとBが「第三者Cとはくっつかない」と契約するのが結婚だ。
このように、結婚は三角関係を前提としている。
『ノルウェイの森』ではAとBとCが三角関係のまま安定した状態が描かれている。
考えてみると、Aにとって三角関係ほど安定した恋愛はない。第三者Cを考えなくてすむからである。
ただし、これには前提がある。AはBやCがほかの異性とつきあっても嫉妬などせず淡々としていられるかどうか。つまり、BやCの所有権を放棄しなければ、この三角関係は成り立たない。同時にBはCの存在を、CはBの存在を許容しなければならない。
ABCすべてがそれぞれの相手の所有権を放棄したときに、この三角関係は安定する。それが『ノルウェイの森』独特の世界観を形作る。
「所有」という概念がなければ人間関係においても波風が立たない。波風が立つのはあらゆる人に「独占欲」があるからである。もしこの三角関係が、「BもCも独占したい」というものであれば、愛憎劇が始まり、関係があっというまに瓦解する。
『ノルウェイの森』で、主人公は直子を失う。ここで三角関係は解消され、主人公と緑の1対1関係が出現する。この作品のラストが描いているのは、所有を拒否していたものが、「所有」にのしかかられる悲劇である。
この作品の最後は、「僕はどこでもない場所のまん中から緑を呼びつづけていた」と描いているが、「どこでもない場所」とは、これまで自分が否定していた場所にほかならない。そこには所有があり、責任があり、生活がある。そういった場に主人公が放り出されたことを示している。
そして、最後には「生活といううすのろ(佐野元春『BAD GIRL』)」を受け入れ、新たにふたりで歩み出すことが暗示される。その比喩が「電話」だ。
ところで、なぜ直子は自殺したのか?
これは物語を丹念に追わないとわからない。1つのヒントは直子の姉も自殺していること。2つめのヒントは、直子が幼くして性的に成熟して、つきあっていたボーイフレンドと性的な遊技にふけるのに、セックスをしていないことである。3つめのヒントは直子の父親がどうやら憎しみの対象になっていることだ。
描写していないので断言はできないが、直子の父は直子の姉や直子に、なんらかの性的な虐待を行っていたのではないだろうか。直接はそう書いてないが、そう考えるとあらゆることが1つの線につながる。もちろん、1つの可能性でしかないが。
直子が主人公に話し続ける場面がある。その話し方は肝心なところをつかない。だから周辺部をぐるぐると回るだけの非生産的な話である。なぜそうなるのか。それはその核心があまりにおぞましくて面と向かえないからである。言いたいが言えないという状態である。
直子が話すことがなくなったとき、主人公と直子は結ばれる。これは主人公がその核心を理解し受け入れたからである。
この作品で性描写や三角関係が肯定的に描かれていることに嫌悪感を持つ人も多いようだが、それらは『ノルウェイの森』の世界を成り立たせるための不可欠である。性は生活の延長であり、生活は生きることだ。生きることを書くには性をはずすことはできない。
この作品で淡々と描かれている性描写は、直子のおぞましい経験に比べると、生活の延長でしかないごく普通のものだ。生活の延長であればたいていのことは許容できる。みっともないセックスも、その人を形作る大事なものだ。
しかし、世の中には許されない性がある。それは直接には書いてないが、書いてないからこそ重くのしかかるのである。
また、所有を拒否してきた主人公も、最後にすべてを背負う覚悟を決める(=「どこでもない場所」から緑を求める)。そして、緑と幸せな家庭を築き、社会的にも成功する(冒頭)。
この作品には、性への倫理的な視点と、他人と生活することを重くとらえる純粋さがある。この2点をもって、この作品には高い倫理性があると考えた次第だ。
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