ご訪問くださいまして、
有り難うございます。
れっつごうです(^^)
吉野源三郎さんのロングセラー、
(岩波文庫)
を紹介、解説しています。
今回で4回目、最終回にします(^^;
前回は、
「石段の思い出」
という、
主人公のコペル君の
お母さんの体験談から、
私たちの罪悪感が救われるような
メッセージを紹介しましたが、
今回は、
それを受けての、
おじさんのNote
「人間の悩みと、過ちと、
偉大さについて」
について、引用しながら、
解説していきます。
僕たちは
人間として生きてゆく途中で、
子供は子供なりに、
また大人は大人なりに、
いろいろ悲しいことや、
つらいことや、
苦しいことに出会う。
もちろん、
それは誰にとっても、
決して望ましいことではない。
しかし、
こうして
悲しいことや、
つらいことや、
苦しいことに出会うおかげで、
僕たちは、
本来人間が
どういうものであるか、
ということを知るんだ。
悲しいこと、
つらいこと、
苦しいことに出会うおかげで、
本来人間がどういうものかを知る?
どういうことでしょうか。
心に感じる
苦しみや痛さだけではない。
からだにじかに感じる
痛さや苦しさというものが、
やはり、
同じような意味を持っている。
健康で、
からだになんの故障も
感じなければ、
僕たちは、
心臓とか胃とか腸とか、
いろいろな内臓が
からだの中にあって、
平生大事な役割を
務めていてくれるのに、
それをほとんど忘れて
暮らしている。
たしかに、
からだに何も異常がなければ、
内臓のことを、ふだん意識することは
まずないですよね(^^;
ところが、
からだに故障が出来て、
動悸がはげしくなるとか、
おなかが痛み出すとかすると、
はじめて僕たちは、
自分の内臓のことを考え、
からだに故障の
出来たことを知る。
からだに痛みを感じたり、
苦しくなったりするのは、
故障が出来たからだけど、
逆に、
僕たちがそれに気づくのは、
苦痛のおかげなのだ。
たしかに、私たちは、
苦痛のおかげで、
からだの故障にはじめて気づけます。
そう考えると、
苦痛も有り難いことなのかも、
しれません。
(だけど、あまりにも苦しいのは、
勘弁ですが(^^;)
同じように、
心に感じる苦しみやつらさは
人間が人間として
正常な状態に
いないことから生じて、
そのことを僕たちに
知らせてくれるものだ。
そして僕たちは、
その苦痛のおかげで、
人間が本来
どういうものであるべきかと
いうことを、
しっかりと
心に捕えることが出来る。
なるほど、
心に感じる苦しみやつらさも、
人として正常な状態でないことを、
知らせてくれる有り難いものだと
いうことですね。
そして、
人として本来どうあるべきかに、
気づくきっかけになる。
人間が本来、
人間同士調和して
生きてゆくべきもので
ないならば、
どうして人間は
自分たちの不調和を
苦しいものと
感じることが出来よう。
お互いに愛しあい、
お互いに好意をつくしあって
生きてゆくべきものなのに、
憎みあったり、
敵対しあったり
しなければいられないから、
人間はそのことを
不幸と感じ、
そのために苦しむのだ。
人が本来の姿でないときに、
苦しみを感じるということですね。
また、
人間である以上、
誰だって自分の才能をのばし、
その才能に応じて
働いてゆけるのが本当なのに、
そうでない場合があるから、
人間はそれを苦しいと感じ、
やり切れなく思うのだ。
本来の才能(個性)を
発揮できないときも、
苦しくなる・・・
人間が、
こういう不幸を感じたり、
こういう苦痛を覚えたり
するということは、
人間がもともと、
憎み合ったり敵対したり
すべきものではないからだ。
また、元来、
もってうまれた才能を
自由にのばしてゆけなければ
ウソだからだ。
およそ人間が
自分をみじめだと思い、
それをつらく感じるということは、
人間が本来
そんなみじめなもので
あってはならないからなんだ。
コペル君。
僕たちは、
自分の苦しみや悲しみから、
いつでも、
こういう知識を
汲み出して来なければ
いけないんだよ。
なるほど・・・
つまり、
人が何か苦しみを感じている
ということは、
本来の自分自身でないという
サインであるということですね。
「この苦しみとは、
いったい何なんだろう?」
と自問自答する。
苦しみの原因を直視することは、
しんどいこともあるかもしれませんが、
勇気をもって、見つめたいですね。
(一人ではしんどいときは、
カウンセラーの力を借りることも
手だと思います(^^;)
以前にも紹介させていただきました、
という本には、
人生には、
ほんとうの自分でない面を
示すことで、
ほんとうの自分を
証明することを
要求されることが
何度かある。
(神との対話1巻より引用)
という印象的なフレーズがありますが、
同じようなことを言っているのかと思います。
に戻ります(^^;
・・・そういう苦しみの中でも、
一番深く僕たちの心に突き入り、
僕たちの眼から
一番つらい涙を
しぼり出すものは、
―自分が
取りかえしのつかない
過ちを犯してしまったという
意識だ。
自分の行動を振り返って見て、
損得からではなく、
道義の心から、
「しまった」
と考えるほどつらいことは、
恐らくほかには
ないだろうと思う。
そうですね、
道義の面、
言い換えると、
「自分の心の弱さ」から
犯してしまった過ち・・・
コぺル君は、
それを犯してしまったわけですが。
私自身も、
今まで生きてきて、
たくさん経験してきました・・・
つい、目をそむけたくなりますが(^^;
そうだ。
自分自身そう認めることは、
ほんとうにつらい。
だから、
たいていの人は、
なんとか言訳を考えて、
自分でそう
認めまいとする。
しかし、
コペル君、
自分が過っていた場合に
それを男らしく認め、
そのために苦しむということは、
それこそ、
天地の間で、
ただ人間だけが出来る
ことなんだよ。
そうですね、
自分の過ちを認めることは、
なかなかつらいです。
ついつい、言い訳や自己弁護をしたくなる・・・
「あの時は仕方がなかったんだ・・・」
と。
しかし、
過ちを直視して、
それを受け入れつつ、
乗り越えることができれば、
人は成長できます。
次に生かせます。
人間である限り、
過ちは誰にだってある。
そして、
良心がしびれて
しまわない以上、
過ちを犯したという意識は、
僕たちに苦しい思いを
なめさせずにはいない。
しかし、
コペル君、
お互いに、
この苦しい思いの中から、
いつも新たな自信を
汲み出してゆこうではないか、
―正しい道に
従ってゆく力があるから、
こんな苦しみもなめるのだと。
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「誤りは真理に対して、
ちょうど睡眠が目覚めに対すると、
同じ関係にある。
人が誤りから覚めて、
よみがえったように
再び真理に向かうのを、
私は見たことがある。」
これは、ゲーテの言葉だ。
僕たちは、
自分で自分を決定する力を
もっている。
だから誤りを犯すこともある。
しかし―
僕たちは、
自分で自分を決定する力を
もっている。
だから、
誤りから立ち直ることも
できるのだ。
「僕たちは、
自分で自分を決定する力を持っている」
・・・勇気づけられますね😊
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以上、4回に渡って、
吉野源三郎さんのロングセラー、
(岩波文庫)
の内容の一部を、
私の印象に残った箇所を引用しながら、
紹介してきました。
物語の部分は、
ネタバレになるため、
あまり紹介できなかったので、
ちょっと抽象的で理屈っぽい内容が、
多かったような気もしますが(^^;
ストーリーの部分は、
古き良き時代を彷彿させる感じもして、
なかなか読ませますよ!
忘れてきた何かを、
思い出させてくれるような本だと思います。
ご一読をおすすめします😊
なお、
主人公の「コペル君」
というあだ名は、
地動説で有名な
「コペルニクス」
から来ているのですが、
他にも、
似たような名前の人がいたような気が・・・
そうです。
同じくポーランド出身の聖人
「コルベ神父」
です。
コルベ神父に関しては、
過去ブログ、


