【今日も、石橋秀野さんを思った】季語「秀野忌」 | 世界畜産動物福祉ランク最下位Japan、遅れ過ぎやろ?!《元ナースの動物愛護と白血病のブログ》

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画像/Wikipedia


秀野忌(9月26日 記念日)

大正~昭和時代の俳人・石橋秀野(いしばし ひでの、1909~1947年)の忌日。

秋の季語。


石橋秀野について

1909年(明治42年)2月19日、奈良県に生まれる。旧姓は藪(やぶ)。俳句評論家・山本健吉(やまもと けんきち)の妻。東京にある文化学院文学部を卒業。


文化学院では学監・与謝野晶子(よさの あきこ)に短歌を、高浜虚子(たかはま きょし)に俳句を学ぶ。1929年(昭和4年)、山本健吉(本名:石橋貞吉)と結婚、石橋姓となる。


1938年(昭和13年)頃より、横光利一(よこみつ りいち)が主宰する句会「十日会」に参加し、本格的に句作を始める。石田波郷(いしだ はきょう)・石塚友二(いしづか ともじ)らと相知るようになり、俳句雑誌『鶴』の同人となる。『鶴』を代表する女流俳人として活躍する。


新聞社で働く夫について、1945年(昭和20年)に島根県、翌1946年(昭和21年)に京都府に転居。しかし、戦時中の疎開生活で病に侵され、1947年(昭和22年)9月26日、京都宇多野療養所にて死去。38歳。


没後の1949年(昭和24年)、追悼の意を込めて句文集『桜濃く』が刊行され、第一回茅舎賞(ぼうしゃしょう)を受賞する。福岡県八女市にある無量寿院の「石橋氏累代之墓」に眠っている。


以上、引用元記事

https://zatsuneta.com/archives/109269.html



📝石橋秀野さんは肺結核を患われ、38歳で亡くなられた。38歳と言えば、私が実家を出て一人暮らしをして3年目だ。病院の寮を出て、二軒目の借家で暮していた頃。そんな若さで亡くなられた。


私は4年半ほど奈良市に住んだ。大阪を離れ、奈良へ行き、大阪へ戻って来た。奈良から帰った直後は、奈良が恋しくて寂しかった。その頃、奈良出身の俳人石橋秀野さんの俳句に出会った。雑誌や俳句の専門書やネットで秀野さんの俳句を集めた。近くにあった図書館で秀野さんの伝記を読んだ。基本をはずさずに、大胆に詠む、秀野さんの作品が好きだった。


私は白血病患者だ。抗ガン剤の治療を受けたら治ると思っていた。現在、完全寛解の状態で、5年あるいはもっと見ないと完治したかは分からないと主治医に言われた。治ってないのだ。銭湯は禁止。人混みにはなるべく行かないようにと言われた。感染しやすいからだそうだ。治ってたら、何処だろうと行けるので、そういう事だ。明日が来るかどうか分からない身の上である。そんな私は時々、短い生涯を鮮烈に生き抜かれた石橋秀野さんを思う。


今日もふと秀野さんを思った。だから、少しまとめてみた。「秀野忌」という季語があるのは知らなかった。9月26日。私が運命の採血をしてもらった日が9月25日だった。内科の主治医は私の連絡先が変わっていたため、直ぐに私に検査結果を告げられなかった。主治医が区役所に連絡して、区役所から私の所に連絡があったのが9月27日だった。その日に、総合病院の血液内科を紹介して貰い、血液検査と骨髄穿刺を受けた。その日は自宅に帰して貰ったが、夕方血液内科の主治医から電話があり、直ぐ入院するように言われた。あの空白の1日。その日が秀野さんが亡くなった日だ。忘れようがない。(2025.11.01記す)







きごさいより引用

秀野忌(ひでのき) 仲秋

【解説】

俳人、石橋秀野の忌日。九月二十六日。奈良県に生まれる。与謝野晶子に和歌を学び、高浜虚子に俳句を学んだ。山本健吉と結婚。石田波郷の「鶴」に参加し、「鶴」を代表する女流俳人となる。叙情あふれる作風。戦時中、結核を発病し、昭和二十二年(一九四七)三十八歳で没した。






石橋秀野さんの俳句


・春暁の我が吐くものゝ光り澄む

・星降るや秋刀魚の脂燃えたぎる

・西日照りいのち無惨にありにけり

・牛乳(ちち)買ふと山坂こえぬ虹の橋

・蟬時雨児は擔送車に追ひつけず







誤字脱字ありましたらすみません。