ジョージアの大学院で、Special Educationのコースワークをしていた時、父が亡くなりました。大学院に入った直後から、トランスファー(転校)を考え、当初の予定では、1年間の日本語を教え、学費を免除してもらう契約が終わったら、自分が勉強したい「バイリンガル教育」が強い大学院に移ろうと思っていました。

けれど、その計画が一変しました。父が危篤という知らせを聞いて日本に帰った時、父よりも母がやつれていたことに驚きました。母は私がジョージアに行った直後に胃がんが見つかり手術を受けました。手術後1年足らずの間に痩せ細り、抗がん剤が苦しくて飲めないと言っていました。この時、大学を休学して日本に帰国するという選択もありましたが、母の強い勧めで、1年の契約だけはしっかり終わらせることにしました。

それまでに7単位を取っていた私は、春学期を無事終わらせれば、大学時代の単位を2クラス分移行し、夏に2クラス取りながら、修士論文を書けば夏に修士号(MA)が取れる状態になっていました。

父の葬儀の後、うしろ髪をひかれる思いで、ジョージアに帰り、教授たちと相談をして休んだ分を取り返し、夏のコースも取るので1年で修士(MA)を取りたいと申し出ました。留学生でアメリカの大学も出ていないのに、1年でMAは無謀だと思われましたが、それまでの成績がよかったので何とか認めてもらえました。

その時点では、MAを取ったらすぐに日本に帰ろうと思っていたので、自分がもっとも興味がある「日本人の英語の発音」で修士論文を書きたいと言いました。

「指導教官がいないから、誰も論文を評価できない。」と言われ、絶望的になった時、ひとすじの光が見えました。(続く)