原田マハさんの小説『キネマの神様』を読みました。2008年に出版された小説です。

Primeビデオで、この小説が原作という映画を観た記事(★)を投稿した時に、原作は映画とストーリーが全く違っていて、しかもとてもいいとのコメントで薦めて頂いたので、早速、読んでみました。

確かに、スト―リーは全く違うのに、現在販売されている文春文庫の表紙は下の画像のものになっています。

僕は映画を観た後、全く違う話と教えてもらって本を読んだからいいけど、映画を観ずこの本を読み、その後、映画のあらすじを確認せずに観た人は愕然とするのでは?と思うほど全然、違っていました。

 

*表紙の写真はネットからお借りしました。

 
「BOOK」データベースで、本作は以下のように紹介されています。

無職の娘とダメな父。ふたりに奇跡が舞い降りた! 39歳独身の歩は突然会社を辞めるが、折しも趣味は映画とギャンブルという父が倒れ、しかも多額の借金が発覚した。 ある日、父が雑誌「映友」に歩の文章を投稿したのをきっかけに歩は編集部に採用され、ひょんなことから父の映画ブログをスタートさせることになった。〈ゴウ〉のハンドルネームで父が書くコラムは思いがけず好評を博し、借金とギャンブル依存から抜け出せそうになるが、ある時〈ローズ・バッド〉を名乗る覗の人物に反論されて……。 〝映画の神様〟が壊れかけた家族を救う、奇跡の物語。

 

一方、映画のストーリーは以下。

無類のギャンブル好きなゴウ(沢田研二)は妻の淑子(宮本信子)と娘の歩(寺島しのぶ)にも見放されたダメ親父。そんな彼にも、たった一つだけ愛してやまないものがあった。

それは「映画」−−− 。

行きつけの名画座の館主・テラシン(小林稔侍)とゴウは、かつて映画の撮影所で働く仲間だった。

 

若き日のゴウ(菅田将暉)は助監督として、映写技師のテラシン(野田洋次郎)をはじめ、時代を代表する名監督やスター女優の園子(北川景子)、また撮影所近くの食堂の看板娘・淑子(永野芽郁)に囲まれながら夢を追い求め、青春を駆け抜けていた。

そして、ゴウとテラシンは淑子にそれぞれ想いを寄せていた。しかしゴウは初監督作品の撮影初日に転落事故で大怪我をし、その作品は幻となってしまう。

ゴウは撮影所を辞めて田舎に帰り、淑子は周囲の反対を押し切ってゴウを追いかけて行った・・・。

 

あれから約50年。歩の息子の勇太(前田旺志郎)が、古びた映画の脚本を手に取る。その作品のタイトルは、『キネマの神様』。それはゴウが初監督の時、撮影を放棄した作品だった。

勇太はその脚本の面白さに感動し、現代版に書き直して脚本賞に応募しようとゴウに提案する。最初は半信半疑で始めたゴウであったが、再び自身の作品に向き合う中で、忘れかけていた夢や青春を取り戻してゆく−−− 。

 

これは、“映画の神様”を信じ続けた男の人生とともに紡がれる愛と友情、そして家族の物語。

 

原作と映画の共通点は、ギャンブル好きのダメ親父ゴウが映画を愛していること、妻と娘がいてギャンブルから足を洗わせようとすること、そして、その手段としてゴウの親友テラシンという人物が支配人を務める名画座テアトル銀幕に通うよう仕向けることぐらい。映画のポスターに描かれている若き日のゴウなんかは小説では殆ど登場しないので、原作のまま映画化すれば、菅田将暉も永野芽衣も野田洋次郎も北川景子も出番がなくなります。

 

で、原作はどうだったかと言うと、ものすごく面白くてドンドン引き込まれ、クライマックスの辺りでは涙が止まらなくなりました。映画もよかったけど、各段に原作のほうがいい!

ちょっとだけ、ネタバレさせますが、
映画が制作側も含めたストーリーになっているのに対し、原作は映画を愛し観る側にフォーカスされていて、しかも、名画座などの劇場で観て感じて心揺さぶられることの素晴らしさは、洋の東西や立場を問わず、映画を愛する人同士、友情が生まれるまでに至るというもの!。
 

映画の方は、松竹映画100周年を記念した作品として制作されたこともあり、山田洋次監督がタイトルはそのままでストーリーをほぼ全く変更、製作側の視点もふんだんに織り込んでオリジナル作品にしたみたいで、その後、映画の脚本をベースに、元々の原作者、原田マハさんがノベライズ、新たなもう一つの物語と言う謳い文句で「キネマの神様 ディレクターズ・カット」が出版もされているので、ある意味、原作と映画はwin-winの良好な関係にあるのかもしれません。

 
僕は、ディレクターズカットはもう読む気はありませんが、映画を観られた方で原作を読まれていない方で、しかも映画が好きな方は是非、読まれることをオススメしますグッ!!ニコニコ